トップページへ  樹の散歩道目次へ   続・樹の散歩道目次へ
続・樹の散歩道
  尻拭きの植物誌


 近年のトイレの快適性の恩恵を日々享受していると、かつての十二単の美女が当時のトイレ事情の下で処理していたことが本当に気の毒になってくる。しかし、実は古代から昭和の前期に至るまで、トイレを巡る基本的な条件はさほど変化がなかったように思われる。つまり、多くは下に溜めるか、箱に収めるかのいずれかであり、どんなに高貴方々でも、強烈な臭気の洗礼から逃れることはできなかったのである。そして、後の始末については地位が高ければ高価な紙の使用が可能であったと思われるが、それ以外の民は木べら(籌木 ちゅうぎ)でそぎ落としたり、様々な植物の葉で拭っていたとされる。そこで、改めて日本民族が長い歴史の中で、どんな植物素材を利用して尻を拭ってきたのかを知らない訳にはいかないと考え、情報を探索して可能な整理をしてみることにした。 【2016.12】 


     再現された惣後架(深川江戸資料館)
 江戸の長屋の2連式の共同便所で、下半分のみが片開きの戸で覆われている。大きな都市部である江戸では、庶民がやっと尻拭きに低質ながら再生紙を使用できるようになった。一方で農山村では従前どおり木べらや草木の葉などが普通に使用されていたという。
  江戸の惣後架と京阪の惣雪隠の比較図(守貞謾稿) 
 京阪では普通の片開きの戸が備わっている。こうしてみると、江戸では若い娘も上からのぞかれてしまうような環境で、しかも音も明瞭に聞き取れるような条件下で、平気で用を足していたことになる。後架、雪隠の語はいずれも禅宗寺院の語とされるが、雪隠の語は元々は中国の故事に由来するという。
 
 
 直感的な予想  
 
 多くの人は例えばトレッキングなどの際に急にもよおすところとなって、大自然の中で野糞をする覚悟を決めたものの、ポケットティシュの持ち合わせがない場合には、手近な葉を利用して処理をした経験があるはずである。

 こうした感覚で考えると、尻拭きに適した葉っぱとは、そんなに難しいものではなく、ある程度の大きさと柔軟性を持ち合わせたものであれば、概ね目的は果たせるはずである。しかし、たぶん常緑の光沢のある革質の葉では、つるつるして拭き取りにくく、実用性に欠けていることはだれにでも想像できるのであるが・・・

 しばしば実際に自分の野糞の経験を披露して特定の植物の葉について講評している例も見かけるが、やはり、本当は各地の農山村の人々が日常生活の中で経験的に選択してきた植物の情報が最も貴重であり、説得力もある。
 
 
 尻拭きの様々な素材  
     
 尻拭きに比較的手に入れやすい木べら草木の葉を含む植物素材を利用したのは極めて自然発生的なものでることが理解できるが、紙が使われるようになったのは平安時代の上流階級に始まるとされ、低質の漉き返し紙(悪紙)が大きな都市部で一般に使われるようになったのは江戸時代からとされる。

 一方、農山村における尻拭きの各種素材に関する情報は民俗学の真空地帯となっていたのか、極めて限られていることが判明した。こうしたなかで、学者ではない民俗研究家の斎藤たま氏の著作は出色で、各地を歩いてその地の年寄りから聴き取りした貴重な情報が記録されているのは、大いに役に立った。歴史の闇、便槽の奥底に埋もれがちな分野の情報を残してくれたことは非常に有り難いことである。
 
 
(1)  木べら(籌木)など  
 
 籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる木べら(時に竹べら)がかつては広く利用されて、民俗学の世界でもよく知られていたという。一方、実際に古い時代の遺構から細長い木片が出土する例が多いことが知られていたものの、考古学者はあくまで慎重で、この用途について判断を躊躇していたが、分析手法が進化して寄生虫の卵が多量に付着していたこと等の事実から、これらが籌木であることを確信するに至ったという。

 藤原京(694~710年)の遺構、秋田城跡(奈良~平安時代)などの当時の遺構、安土桃山時代の遺構(吉川元春館)等々、多くの遺構から籌木がザクザクと出土していて、関係書籍でいやというほど目にすることができる。

 籌木は国内で広く利用されていたため呼称も色々あり、糞篦(くそべら)、厠籌(せっちんべら)、落とし木、掻木(かきぎ)、コキ箸 等の名が知られている。形状はしばしば割り箸の割る前のものに近いとたとえられている。

 汲み取り便所では使用済みの籌木を落とすと汲み取りの邪魔(もちろん、下肥の利用上も支障がある。)になるから、あくまで新品とは分けて取り置き、まとめて処分した模様である。
 
     
  籌木の利用事例 (落し紙以前より抜粋)   
 籌木の材料とされた木は多くはで、ほかにウリハダカエデ、ネズコ、シナノキ、クリ、クルミ、ヌルデ、さらにはヤマウルシまである。これらの共通点は割れやすいことである。木以上に利用される竹も石もこれに準ずることは言うまでもない。昭和46年、岩手県岩泉町安家(あっか)で、茅葺き屋根の便所で木の箱に収まった籌木の現物が確認されている。
 注:ウルシの木の使用でかぶれを招いた例もあって、これは決して積極的に選択したものではなく、十分な知識がないままに誤って使用したものと思われる。 
 岐阜県上宝村、古川村ではステギと呼び、まだ割る前の割り箸ぐらいの幅で長さもちょうどそれぐらい。1本使って1回で拭う。(2度拭くときは、また別の1本を使う。)素材はスギサワラ。使用後は川へ流す。(川下の富山ではそれを拾って仏様のご飯を炊くのに使ったという笑い話がある。また別の地域では川下の者は昼飯の箸にしたと笑った。)
 注:1本で2回拭くワザも普通にあり、その場合は1回目は先端部を使い、2回目はそれより手前部分を使用したという。 
 長野県奈川村ではちょうげんと呼び、サワラネズコを使用。使用済みのものは焼却。 
 岩手ではかぎんかあぎんと呼び、ヒバサワラを使用。1本手に取り、体の前から手をやって右から左へかいぐるようにする。 
 木べらはかつては国内で広く使用されていたと思われ、好んで平地に住むようになるとその地で都合のよいワラなどに代わり、さらに紙へと変遷した。木べらはとりわけ山の奥、谷、川筋の最奥部にばかり残ることになった。 
 竹細工をする地域では、内側の細工に使わない部分を使用。東京都下奥多摩町でも紙と竹を併用し、年寄りはちゅうぎん棒と呼んで竹を使用していた例があり、福島県富岡町、宮城県河北町、雄勝町では竹べらを使い、使用後も洗って使った例がある。 
 
 
 個人的には、こうした用途にはシナノキの感触がよいに違いないと思われ、また、できればアイスクリームのスティックのように端を丸めたら尻に優しく、快適に違いないと思われるのであるが、多量に必要とする使い捨て品であり、実際にはそんな丁寧な造りとする暇はなかったのであろう。製作の作業効率の観点からは、針葉樹の大径木を短尺に切ったものを素材とすれば都合がよいことはわかるが、実際には籌木を作るために良質な木を伐採することは考えにくく、端材や残材、小径木を割って製作したものと思われる。出土品の写真を見ると、少々痛そうな印象があり、体験したくない用具である。

 なお、「籌木」の呼称であるが、突然の随分難しい漢字で驚かされる。「籌」は今の中国の簡体字は「筹」で、たけかんむりの寿とは何やらめでたい印象を持ってしまうが、中国では竹の札のようなものを指している。中国伝来の文化、呼称としか思えないが、民俗学の辞典(後出)では禅家(禅宗の寺)から出た呼称としている。そこで調べてみると、中国語で厕筹(厠籌)厕简(厠簡)といった竹や木のそのものを指す語があり、やはり、中国伝来の文化であり、さらに中国での名前に倣った呼称と理解するのが適当であると思われる。
 
 
  <参考資料>   
 【綜合日本民俗語彙】チュウギ(籌木)
 厠籌(糞べら)のこと。これを籌木という語も禅家から出たと思うが、それにしては分布が広く、北は青森から四国は土佐、中部地方の山間部にもある。飛騨ではチョウギ、静岡県磐田郡の奥にも、明治の終わりまではこの名があった。使用した者を籠や箱にためておいて、後に竹藪その他一定の場所に捨てることにしており、チュウギウッチャリバと呼んでいた。材はが多く、所によっては麻の桿も用いた。島根県の西部の山村では、落し紙をチュウギという。 
 【日本民具辞典】ちゅうぎ(籌木):(抄)
 大便のあとに尻を拭くのに用いる木や竹のへらのこと。捨木掻木(かきぎ)ともいう。籌木の語は禅家から出たが、明治の終わり頃まで北は青森から西は高知まで用いていた。おもにが使われ、地方によって大きさは異なるが、幅2cm 前後、厚さ7~8mm 前後に削り、端を持って尻にあて、まわすようにして拭き取る。便所には籌木を入れる箱や籠があり、100本ほど入れることができた。岐阜県白川郷の合掌造りの家屋では、大家族のためヘンチャ(便所)は大きな便槽に踏み板を渡し、何人もが同時に使用できるようにしてあり、中央に大きな籌木箱が置いてある。使った籌木は別の箱に入れてあとで焼却するが、鹿児島県地方ではこの火にあたると吹き出物が治る伝えられた・・・ 
 
 
(2) 植物の葉など  
 
 各地における過去の使用例に関する聴き取り調査の記録が斎藤たま氏の「落し紙以前」に掲載されていて、大変参考になる。個人による拠点的な調査結果であり、方言の地域分布のような精度はないが、人があまり口にしたがらない内容を足で稼いだ成果は貴重である。主たる掲載種及びその要点は以下のとおりである。  
     
   尻を拭いた葉の例 (落し紙以前より抜粋)  
 
フキの葉  落とし紙に望まれる(葉の)条件は、まず大きいこと、当たりが柔らかくて使いやすいこと、沢山あること、楽に集められること、身近にあることであろう。蕗はその何れの条件も充分満たす。さらに採っても採っても後からまた出てくる。このため蕗はどこでも落し紙にされている。
 【当人】子供の頃尻拭きは古い手習い本、新聞紙、粗雑な少年雑誌であったが、毎年春には蕗の葉が使用していた。生のうちはそれほどでもないが、1日、2日放ってしおれた葉は、柔毛が全身を覆って羊皮のようでもったいないほどで、肌触りがよく、繊維入り障子紙のように強靱である。
クズの葉  クズは便所の紙代わりではフキに次ぐ次席にある。つるから扱くのも容易で、葉は丸味を帯びて大きく、丈夫でねばり強い。徳島県の東祖谷山村あたりでは落ちた後のを拾う。
 【当人】蕗が見られなくなる山道では葛が一番多くなり、少々堅いが、あらかじめ2、3枚摘んでポケットに入れておけばちょうどよくなる。
ガクアジサイの葉  伊豆諸島の新島ではガクアジサイの葉を「シーノギッパ(しりふきはっぱの意)」と呼び、昔から尻ぬぐいに使った。生ではすべるので、採取後しばらく放置してから使用するとよいとされる。ヨモギやフキの使い心地をを評価する声もあり。
もぐ(標準和名不明)  宮城県亘理郡山元町では、海岸部の住民は「もぐ」と呼ぶ海から寄る海藻のようなもの(川口に繁殖)を夏に採取・乾燥して尻ぬぐいに使用し、使用後はまとめて焼却した。細いもぐは柔らかくて使用感良好。
 注:「もぐ」はアオミドロの類であろうか?
リョウメンシダ  宮城県鳴子町では、リョウメンシダを「カクマ」と呼び、秋に刈り取り後に乾燥し、束ねて便所の梁などに吊す。乾きすぎたものは水を含ませる。使用時は軸から葉を扱き、二つ折りにして折り山のところで拭う。使用後は堆肥に投入したり廃棄。新聞紙より感触がよいという。
カキの葉  生の葉は堅いが半ばしおれたものは肉厚の有利性が前面に出たであろう。山形、福島、新潟、長野等でも使っている。
とうもろこしの皮  軒に吊されたトウモロコシの皮は多かれ少なかれこれを使った話を聞くが、内側の皮は柔らかいが、外側の皮は堅い。これを湯に浸け囲炉裏の火であぶりながらしわを伸ばす技がある。十津川ではこれに加えてクズ葉も使った。
ワラ(藁)  藁のはかま(スベ、ワラスベ)の使用は国中に至っており、(使用の便を考えて)束ねて15センチ間隔くらいに何カ所かを縛り、結びの間を押し切りで切って、使用時は少しずつつまみ抜いて揉んで使う。東北各県はこれと異なり、2、3本の藁を20センチぐらいに繰り返し折り曲げて端を留め、これで拭う。(経過としては木べらから手近な藁に転換した模様。)
エビクサ(エビモ、ササエビモ、ミズヒキモを指す)  秋田の南部、玉川と雄物川の流域では広く皮藻が尻ぬぐいに利用されていた。夏に採取し、土手で乾かし、便所の箱に入れて使用。シリヌグリ、シリグサなどと呼んでいた。大変肌触りがよい。
シシガシラ  新潟県川上村久島(くじま)ではオサグサと呼び、尻を拭うのに使用した。降雪前に採取し、2、3枚をたたんで裏で拭く、あるいは二つ折りにして、その折り山ですくうように拭う。
タニウツギの葉  山形県内各地でガザと呼び、葉を尻拭きに使用した。採取後に乾燥し、適宜水を掛けて湿らせて使用する。使用後はそのまま落とす。このため、ウツギは切り花しはしない。
オオバコの葉  オオバコは大きめの葉でどこにでもある草なので、フキと同じく落し紙に使われている。
ホオノキの葉  ホオノキの霜が降った後の落葉はかつては豆腐屋でも肉屋でも魚屋でも包み紙にされた。南会津の伊南村耻風ではそのまま使うほか、葉の元を落としたものを二つに切って使う例もある。この場合は二つ折りにして籌木に準じた用法のようである。
トチノキの葉  各地で利用された。
シナノキの葉  南会津の舘岩村などではシナノキの葉を使った。
ハクウンボクの葉  鳥取県日南町、広島県西城町などではハクウンボクの葉を使った。木の葉はビロードのようで柔らかく、気持ちがいいとされる。
ナラの葉  広島県高田郡、山県郡のあたりではコナラの葉を使う。5月頃の若い葉を採って乾燥して保存。ナラガシワの使用例もある。
オオハマボウの葉  沖縄、奄美諸島の人たちが、ほとんど一手独占の形で尻ぬぐいの用に当てるのがユーナ(オオハマボウ)の葉である。大きく、肉は厚めでそれでいてしなやか、丈夫でなかなか破れにくい。フキその他の葉類と共通で少ししおらせた方が使いやすくなるので、前もって採っておく場合も多かった。葉は皿代わり、包み葉にもされる。
ヨモギの茎葉  能登半島はヨモギを大々的に使うところである。尻拭き用は5、6月から秋過ぎまで使用。少ししおらしたものは柔らかくて気持ちがいい。
その他の葉  カラムシ、オオバコなども使用された。
イタドリの茎  福島県南会津下郷町枝松では尻ぬぐいにタケスカンポ(イタドリ)を使っていた。秋に刈り取り、葉を落とし、適当な長さに折った上でいくつかに割り、樋になった方を内側に向けて拭く。太い部分は四ッ割りにする。岩手県岩泉町や安家のあたりでは、イタドリの使用がもっぱらである。
 注:イタドリの葉も悪くないと思われるが、イタドリの茎のメリットは、葉の場合のように一枚一枚広げた状態で押さえてストックする手間が掛からない点にあるようである。
タケニグサの茎  岩手県大船渡市日頃市ではタケニグサの茎を8寸ぐらいに切った上で割って使った。ただし、これは分布の制約が関係していて、本当はイタドリの方が使い勝手がよかったようである。
麻がら(麻幹)  麻幹(あさがら、おがら)は麻の皮をはいだ茎で、茅葺き屋根の軒づけ、焚きつけなどにも利用され、福島県南会津一帯では麻がらを便所のヘラ代わりにすることが多かった。麻がらをよく乾燥して保存し、使うときは逆手につまんで前から股下にやり、何度もまわしながら拭う。麻がらは粘りがあって折れない。昭和27年に便所の麻がらの目撃情報がある。
茅の茎  南会津井桁では麻がらと同様に茅の茎を(はかまを落として)使う。
 注:茅とは複数の植物の総称であるから、ここでの標準和名は確認できない。
コウゾがら  新潟県川上村丸渕ではコウゾがらを尻拭きに使用した。
 
   尻拭きに利用した葉の種類は数限りなくあったようであるが、食べ物を包んだ例えばホオノキの葉が尻拭きにも利用されたのは面白いことで、ほかにも同様の例がありそうである。

 なお、樹木の葉の利用に関しては、当然ながら物理的な制約があったことが推定される。いくら具合がよさそうであっても、まさかこのために大きな木を倒して葉を採取するなどあり得ないことであり、こうしたものは落葉の利用となり、主は草本と低木であったと思われる。

【追記】
 荒俣宏の「花の王国(平凡社)」に、かつて雪隠の手前の手水場脇にヤツデを植えたのは、落とし紙の代わりにその葉を用いた実用的な理由によるとして説明しているが、ヤツデの葉は感覚的にも尻拭きには全く馴染まないから、勘違いと思われる。
 ヤツデの樹がトイレ近くに植えられたのは、かつてはヤツデの葉を刻んで便槽に投入し、蛆(うじ)殺しに使用したことに因むというのが正解である。
 
     
(3)  縄   
     
   縄の利用は世界の各地で見られたようである。日本でもかつては縄で尻を拭いた例もみられたという歴史については、「信じられないような昔話」としてしばしば笑いのネタとされている。しかし、これが具体的にどういったワザであったのかは理解しにくく、個人的には謎のままとなっていた。縄を前後に動かした、あるいは腰を前後させたとかいう説もあるが、これでは尻に汚れを塗りたくる様な印象があってあまり綺麗になりそうもないし、特に女性の場合は前から後ろに拭うのが絶対的な条件であるはずである。また、固定した縄では他人の糞のカスをもらい受けることになって気持ちが悪い。そこで、まずは先の「落し紙以前」の情報に頼ることにする。  
     
   縄による尻拭きの例 (落し紙以前より抜粋)  
 
 宮城県河北町では便所の外に打った杭に縄を張って利用した例がある。
 宮城県築館町では縄で処理し、また乾してはたいて再利用した例がある。
 岩手県内では便所に高さ50センチほど、3メートルくらいの長さに縄を張った例がある。
 岩手県和井内ではフジのようなものを材料とした縄が利用されていた例がある。
 岩手県鳥矢崎では便所の高みから床まで縄が垂れ下がっていて、端を持ってまたいで擦ったという例がある。
 岩手県住田町仁田代ではミョウガの茎で編んだ縄を便所の後方の柱の間に張って、これに跨がって少しずつ場所を移して1、2回擦って拭き、すっかり汚れたら天気のいい日に川でよく洗い干してまた使用した例がある。
 
     
   残念ながら詳細のワザまでは理解しにくいが、個人的には絶対に体験したくない用具である。   
     
(4)  その他   
     
   世界の各地で尻拭きに利用された素材は限りがないが、「ウンチ大全(ジャン・フェクサス)」には、どこまで本当か不明であるが、古代ギリシャ人は小石を使ったとか、フランスの王室では亜麻屑を、マントノン夫人(ルイ14世の愛妾)はメリノ種の羊毛を、デュ・バリー夫人(ルイ15世の愛妾)はレースを、リシュリュー枢機卿(ルイ13世の宰相)は麻織物を使い、民衆は草であれ苔や小石であれ、何でもかんでも手当たり次第に使ったとある。

 また、斎藤たま氏は、雪のある折は雪を握って玉にし、2度、3度面を変えながら転がせば、水使用と同じでさっぱりするところが心地よいとしている。これは理解しやすい。例えば、積雪地の屋外で手が汚れた際に、雪を手に取り雪球として手を拭うことはふつうに経験しているからである。尻の場合は少々ひんやりして穴がキュッとすぼまりそうで、あまり経験したくないが、緊急時はこういったことになると思われる。 
 
     
3   気になった点など   
     
   籌木や葉っぱがにいつ頃まで使用されたのかは知りたいポイントであるが、総論的には例えば農家では大正ころまで(世界大百科事典)とする記述が見られる。しかし、たぶん地域により、さらには家単位でもかなりの違いがあったと思われる。実際に籌木が昭和の後期にも存在し、イタドリの葉が平成に入ってからも使われていた例(落し紙以前)がある。つまり、若い世代は別にして、お年寄りが慣れたものを引き続き頑なに使用して、紙と併存した状況も普通にあったもの思われる。

 江戸時代の長屋の惣後架では漉き返し(再生紙)の低質安価な浅草紙が使用されていたとされる。そこで、この尻を拭いた紙がまた再生用にまわされたのかが気になるところである。この点を明記した信頼できる情報を目にできないが、さすがに普通はこれは便槽に落としていたものと思われる。そうでなければ「落し紙」にならない。しかしである。昭和初期の話として、共同便所に使用後の紙を入れる器があって、これが定期的に回収され落し紙(漉き返し紙)として再生されていた(時代風俗考証事典)とする恐い記述を目にした。 
 
     
4   ウンチにまつわる話あれこれ   
     
(1)   汲み取り便所のにおいの悪夢

 このにおいを嗅ぐ羽目になるたびに、ヒトはなぜこれほどまでにくさいものを体の中で生成し、排出するのか、ため息をつきながら嘆かざるを得ない。臭覚はある程度のもにには慣れが生じ、これは順応といえなくもないが、ウンチのにおいは永遠に苦痛である。ポットン便所は一定時間とにかく我慢を強いられるものと割り切ってきたが、実はアンモニアに起因するものなのかは明らかではないが、目までヒリヒリするのをしばしば経験している。これを指して、個人的には「においが目にしみる」と表現して嘆いた。 
 
     
(2)   汲み取便所のお釣り(跳ね返り) 

 ポットン便所の実態を理解するための重要単語である。便槽の表面に大便が一定の厚さで層を成していれば心配はないが、水っぽい状態となっている場合は要注意である。こうした場合、切れた糞が加速して落下すると、必ずや恐怖の黄色の液体が見事に垂直に跳ね上がり、腰を屈めている者に襲いかかってくるのである。これは江戸時代でも変わりなく、当時は糞が切れた直後には俊敏にお釣りをかわす身のこなしが重要とされていた。近代にあっては、こんな技は継承されていないため、明らかに危険があると判断した場合の一つの対応策として、新聞紙を落とすという方法があった。ただしこれもコツがあって、新聞がひらひらと揺らいで落ちて、目標とする直下から大きく逸れてしまったら元も子もない。日本国民はそれぞれの時代に苦労を経験してきたのである。
 
     
(3)   衛生車の殺人的臭気

 かつてはバキュームカー衛生車と呼んだが、糞尿を肥料として利用しなくなって以降、農家では便槽の糞尿は料金を払って衛生車に汲み取りを願うことになった。一般の民家はそれ以前から依存していたことになる。この車による作業中は、吸引に伴う悪魔の排気が風下に拡散して猛烈なにおいが覆い尽くすところとなり、辺り一帯は地獄の底に叩き落とされるところとなった。ウン悪くこの風下を歩かざるを得ない場合は、人々は息を止めたまま、足早に通過したものである。通常の便槽のにおいを遥かに上回るもので、今でもこのにおいの生成メカニズムがどうなっているのか理解できないままとなっている。攪拌効果により、毒ガスに匹敵する成分が生成されたのかも知れない。このにおいを思い返すと、最高度に臭気を発揮する状態の糞尿は、兵器としての活用が十分可能であることを確信できる。 
 
     
(4)   糞尿テロ・糞尿爆弾・黄金爆弾

 次のような事件が知られている。 
 
     
 
 成田空港建設反対闘争では、地域の農民が「黄金爆弾」の名の糞尿攻撃を繰り返した。 
 2015年8月4日、韓国の日本大使館正門に汚物の入ったビニール袋を投げつけた不埒な韓国人がいた。いかにも韓国人らしい所業で、もちろん、これに拍手した韓国人が少なからずいた。 
 1971年の昭和天皇・皇后によるヨーロッパ歴訪でデンマークを訪問した際に、移動中の車が「糞尿爆弾」を投げつけられた。薄手のゴム製品を利用したものとされる。 
 1990年11月21日、東京都千代田区で糞尿テロ事件が発生した。新左翼活動家が糞尿を積載した車輌により二重橋前交差点付近で糞尿をまき散らしたもので、皇居外苑汚物散布事件として知られる。 
 
     
   糞尿攻撃を受けた場合、命に係わることはないがその精神的ダメージには計り知れないものがある。ヒトが排出したものでありながら、この洗礼を受けたヒトはいかにも脆弱で、心的外傷後ストレス障害を引き起こしかねない。頭から直接浴びることがなくても、例えば金持ちの豪邸のあらゆる調度品、クローゼット、ついでに高級車の室内にも糞尿をまき散らされたら、たぶん被害者はしばらくは立ち直ることはできないであろう。   
     
(5)   日本一くさい駅

 国内の多くの駅を調査したものではないが、昭和40年代の鳥取駅はくさいことでは日本一に違いないという確信を持った。駅舎に入った途端に強烈な臭気に襲われ、すっかり気持ちが萎えた記憶がある。駅舎全体にこれほどの臭気を拡散した駅便所は、想像を絶する状態にあったに違いない。こうした状態が放置されていたということは、地域ではこれは普通のことで、仕方がないものと受け止めていたのかも知れない。しかし、ある外国人もこの強烈な臭気には腰を抜かしたようで、Tottori Station smells terrible. と表現していた。県庁所在地にありながら驚くべき国辱的な施設であったわけであるが、現在では改善されたと聞く。 
 
     
(6)   汲み取り便所の恐怖

 ポットン便所を幼少期に経験した者であれば、暗黒の便槽をのぞき見たときに味わう奈落の恐怖を忘れることができないはずである。しかも、しばしば大量に発生したウジ虫が蠢く姿がうっすら見えて、それは地獄絵図に等しいものであった。もし誤って落下したら糞とウジ虫にまみれて苦しみながらおぼれ死ぬ可能性があることを子供ながらに感じたのである。実際に、かつては幼い子が便槽に落ちる事故はまれではなく、さらに命を落とした例も知られている。大人であっても危険なことは同様で、江戸時代に江戸城では酔って便槽に転落して命を落とした殿様もいたという。 
 
     
(7)   田園風景の中の便槽

 畑作地帯では、道端に点々と便槽が存在したのは普通の風景であった。畑で下肥を利用するに際しての中間拠点である。新鮮な糞尿は作物にはあまりよろしくないことが知られていて、適度に熟成する効果もあったのであろう。しかし化学肥料が全盛となると、畑の中の便槽は無用のものなって放置され、少々危険なものでもあった。一方で、地域の子供達は、便槽に大小の石を投げ込んで、跳ね返りをかわすスリルを楽しんでいた。身のこなしが悪いと黄色い跳ね返りで服を汚し、ウンが悪かったと嘆いたものである。 
 
     
(8)   黄金水・聖水・黄金の雨
 

 想像力豊かなある種の嗜好を有する者は世界に共通して存在し、彼等にとっては、ドミナの黄金水は至福をもたらすものとなっている。 
 
     
(9)  かつての東京のウンチの行方

 昭和の初めから、東京市内で汲み取った糞尿を海洋投棄するようになった。農家の下肥利用が減ったからである。当初は湾内で、戦後の昭和20年代は投棄場所は東京湾外とされたが、湾内への不法投棄が相次いだ。江戸前の魚がこれで育ったともいえる。(江戸の糞尿学)
 
     
(10)   ヒトだけが尻を拭く理由(ヒトだけが肛門を糞で汚す理由) 

 この話の前に、以前から気になっていたことがあった。四つ足動物、例えば普段見かけるイヌが常時尻の穴をこれ見よがしに露出して歩く姿は、所構わずに糞、小便をする習性と相まって、だらしのなさを象徴しているように見えて腹立たしく思っていた。しかし、少し学習すると、四つ足動物は糞の切れがよく、直腸から肛門にかけての構造も糞切れのよさを確保するための機能を有しているらしいのである。具体的には、糞が出るときには直腸が少々露出状態となり、脱糞後はまた元に戻るということらしい。(注:ベチョベチョの軟便では具合が悪い。) ところが、ヒトは直立歩行に伴って肛門が奥まった位置となり、そのために糞切れの機能が低下したらしいのである。イヌの尻の穴はしかも風も当たるし日も当たるから、なお一層衛生管理が行き届くのかも知れない。 
 
     
<参考メモ:トイレいろいろ>   
     
 ①  水辺のポットン便所 
 桟橋を作り、水中にポットンするタイプは古代の日本を含めて世界各地でみられたものとされる。さらに、南方では水中で出す方法も見られたという。これはきっと気持ちがいいに違いない。ひょっとすると小魚たちにツンツン突かれて催促され、くすぐったい思いをするかも知れない。 
 ②  水路による水洗便所
 水路を作ってポットンし、流す方式も洋の東西で広く見られたタイプとされ、古代の日本の都市でも確認されている。 
 ③  豚便所
 中国及びその強い影響下にあった沖縄でみられたもので、ウンチを豚舎に落とし込む方式で、自動的にこれが豚の餌になるという驚異(恐怖)のリサイクルシステムで、中国では遅くとも前漢時代から始まり、近代まで利用されていたとされ、沖縄では戦後に衛生面から禁止されたとされる。 
 ④  上空からポイ捨て
 中世ヨーロッパの都市部ではおまるの排泄物を窓から道にポイ捨てするのが普通であったのは有名な話である。 
 ⑤  樋箱(ひばこ)
 奈良時代に中国から伝わったとされる箱形持ち運び式トイレで、十二単の平安貴族の若い娘も侍従の手を借りて苦労しながら用を足したという。 
 ⑥  固定式樋箱
 鎌倉時代以降、殿様は部屋にはめ込んだ樋箱を使用し、溜まったものは樋箱の下の引き出しを抜いて処理したという。 
 ⑦  惣後架(京阪では惣雪隠)
 江戸時代以降の長屋の共同ポットン便所である。溜まった糞尿は大家が近郊の農家に肥料として販売した。糞尿を運んだ舟は「葛西船(かさいぶね)」と呼んでいた 
 ⑧  谷崎潤一郎のウン蓄談義
 「陰翳礼賛」には次のようにある(抜粋)。
 私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内されることに、つくづく日本建築の有難みを感じる。日本の厠は実に精神が安まるようにできている。日本の建築の中で、一番風流にできているのは厠であるとも云えなくはない。木製の朝顔に青々とした杉の葉を詰めたのは、眼に快いばかりでなく、いささかの音響をも立てない点で理想的と云うべきである。

 また、随筆「厠のいろいろ」では、又聞きながら、蛾の翅を敷き詰めた糞壺の話も紹介している。これを見て思いついた。蛾の翅よりも、ふわふわのグースダウンを使った方がはるかに幻想的な光景が期待できそうである。 
   
   
 
   
うじ殺しに利用した植物についてはこちらを参照   
     
     
 くさい話が続いたため、最後は口直しの美しい写真である。    
 
 ウンチ大全(ジャン・フェクサス)に掲載された1880年頃のフランスの絵葉書とされるもの
 現実にはなかなかお目に掛かることはできない夢の風景を演出した写真で、これは秀作である。