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続・樹の散歩道
  デブの研究
    人間界にはなぜデブが多いのか 
    そしてデブから脱却する方法は?


 コツコツと心掛けるだけで標準的と思われる体重にまで調整ができたことから、この表題を掲げることができることになった。また、これにより、極めて客観的な視点で街中の行き交う人々を観察することができるようになった。心に余裕が生じた上での感想であるが、やはり年齢、性別を問わず、昔はお友達であったおデブちゃんが多いのは事実で、明らかに股擦れ状態の人たちや、人ごとながら自分の尻を拭くのに難儀をしているのでないかと心配になる人たちも少なくない。実は、こうした風景は人間界固有のものであり、野生動物では決して見みられないことである。改めてこの現実に向き合ってみた。 【2015.3】 


 
  書籍「デブでした:パパイヤ鈴木」の表紙(2010.1.25、株式会社ランダムハウス講談社)

 かつてウチの娘がプレゼントしてくれた(正確に言えば、優しいからというより、みっともないから早く何とかしろとの厳しい警告だったのであろう。)本である。

 内容はおおよそ想像ができたことから全く読まないままになってたのであるが、深く反省して体を少々絞った後に余裕をもってこの本を開いたところ、やはり、ほぼ予想通りのことが記されていた。

 以下の記述内容は、この本とは直接の関係はない。 
 
   
   デブの種類

 見た目に同じデブであっても、たぶんデブには2種類あると思われる。@ ブヨブヨになってもお構いなしの確信的なデブと、A できれば何とか食い止めたいと思いつつもダラダラと日々を過ごしているデブである。

 確信的なデブは、言わば人生観に由来するものであり、食べたいものを変に我慢するより、本能のままに食べたいものを食べ、これに最大のプライオリティを置くとともに、このことにこの上ない喜びを感じているはずであるから、どういう結果を招こうとも他人がとやかく言うべきではない。しかし、不本意なデブの場合は、禁煙の場合(こちらを参照)と同様で、理性を働かせれば、ふつうの状態に回復することが可能である。

 なお、どちらのデブであっても、その体型は、間違いなく毎日節操なく食べていることを証明していることに変わりはない。 
 
   
   デブの原料

 別にデブに限らず、人の食べ物は地球上の多くの植物及び、植物を食べて育った多くの動物であり、地球上の最強の動物として、間違いなく極めて傲慢、貪欲、贅沢な食生活を送っており、その上膨大な食べられるものを余らせ、あるいは賞味期限切れと称して廃棄し、平然としている。これも他の野生動物ではあり得ないことである。人間界では必要以上の食べ物が溢れ、供されており、このことに着目しただけでも、デブの存在は必然性があると理解できる。 
 
     
   デブの究極的な要因

 デブが形成される究極的な要因は明らかであり、生命活動のために要する以上に食い過ぎたからであり、そのデブが食べている風景は、いかにも節操がなく、食べること自体が目的化しているとしか思えない。つまり、全くの自業自得、因果応報の現象と理解できる。こうした現象が生じるさらなる要因を考えると、次のことが考えられる。 
 
     
   デブになる実態的な要因(デブの形成要因)   
     
 @  額に汗して食べ物を得るという動物としての宿命から解放されたこと

 野生動物を見れば明らかなように、動物は生きるための日々の糧を得るために昼又は夜に活動・行動しており、体の筋肉もそのためのものであることが理解できる。一方、ヒトは社会的な役割分担が進み、筋肉労働を伴わない労働形態が占める割合が多くなり、これは生物としては全く予定外のことであったことは間違いない。つまり、筋肉労働を伴わない机上事務で日々を暮らしている場合は、摂取カロリーをかなり抑制すべきところが、ついつい惰性で必要以上に食い過ぎている場合が多いと思われる。そもそも机上事務をするのに、筋肉など最小限で済むはずであり、放って置いてもヒトの体型は次第にこれに適応したものになっていくものと思われる。 
 
     
 A  デブの素となるハイカロリーの美味しいものの誘惑が周囲に満ちあふれていること

 ヒトは飢餓を経験した遺伝子に由来して、体に貯金し易い体質を温存していることが知られている。つまり、かつて、ご先祖様たちがしばしば経験した飢餓状態に起因して、食べられるときにできるだけ体に貯金しようとする節約遺伝子(倹約遺伝子)が作用すという考え方は非常にわかりやすく、強く支持したい。

 こうした体のシステムが作用する状態で、現在は美味しいものが溢れすぎている。デパートの地下を散歩すると、洋菓子のコーナーでは見ただけで体がとろけそうなほど色も鮮やかでおいしそうなスイーツがズラリと並んで眩しいほどであり、総菜コーナーでは思わずヨダレが出る実に多様な食品がいい匂いを漂わせて見渡す限り店を連ねている。少々抑制的な日々を送っている身としては体がうずいて明らかにマゾヒスティックな状態に陥り、頭がおかしくなりそうなってしまう。それほどに身の回りは食の快楽の誘惑に満ちあふれているが、ふと、この風景は実は地獄を垣間見ているのかも知れないという不安もよぎる。 
 
     
 
           街中のタヌキ
 この姿に親しみを感じたら、すでに立派なお仲間である。
             日常の甘い誘惑
 年齢の如何に関わらず、こうしたものは理屈抜きで美味しく、つかの間の幸せに浸ることができる。ただし、当然ながらトータルの摂取カロリーの制御が必要である。  
 
     
   デブの解消・防止策として心掛けるべきこと

 デブの形成メカニズム自体が極めてシンプルであるから、対応策も論理的には難しいことは何もない。 
 
     
 @  消費カロリーに見合った食事とすること

 かつてのように額に汗をして日々の食べ物を得るという生活が一般的ではなくなった以上、それにふさわしい慎ましやかなカロリー摂取とすべきであるという、当たり前のことを自覚し、実践することが基本である。かつて職場の同僚と共通して知るあるスーパーデブを巡って雑談を交わしていた際に、次に掲げた点に関してはしみじみと意見が一致した。今でもこの認識は頭にこびりついていて、自らを律するために日々反芻すべきであると感じている。

・ デブはやっぱりよく食う!!
・ その様子は、あたかもデブがデブであり続けるため、あるいはさらなるデブの高みを目指しているかのようである!!
 
 
     
 A  付随的なことであるが、体の機能低下を来さないための最小限の運動に心掛けること

 運動のための運動は、生物としては本来的にあり得ないものであるが、食べるために本気で筋肉を使用をしなくなった以上、残念なことであるが、生体の機能低下を来さないための最低限の運動のための運動を心掛けざるをえない。そこで、最も経済的な運動は、脚の機能を維持するための歩行・散歩であろう。目的のない散歩は、生物として極めて不自然な行動であるが、生命体として、ヒトがほとんど運動をしないことにまだ適応しきれていないから、これは仕方のないことである。

 なお、経済的な余裕が十分あれば、好きなものを好きなだけ野放図に食べ、その一方で、金に糸目をつけずに楽しく、効果的なスポーツ等により、過剰に摂取したカロリーを相殺するという堕落した贅沢を実践することも可能であるが、貧乏人には関係のないことである。 
 
     
   結論

 経済的に本当にカスカスの状態であれば、昔のふつうの日本人と同様で、そもそも肥満など無縁である。また、健康を意識して自己管理ができていれば、ブヨブヨになることもないはずである。ところが、節操なくよく食うデブを食い物にしたビジネスが大いに栄えていることは本当に情けないことである。こんなしょうもないものに大金を使うのは実に愚かであり、自己反省も込めていえば、やはり、デブであることの弊害を認識し、真面目に理性を働かせて考えれば、野生動物とは異なる条件の下では「節度」と「自己管理」が極めて重要であることが改めて理解でき、事態の自律的な改善を図ることができるはずである。 
 不摂生の対価として法外な料金を支払って “コミット” してもらう必要など全くない。