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刃物あそび
  フィットカットカーブは画期的な(新しい)技術なのか


 普及価格の事務ばさみに関連して、革新的な技術が開発されたり、大幅な機能性向上につながるデザインが採用されるなどということは普通はちょっと考えにくい。上質なはさみはやはり少々価格が高くなるのは避けられないが、このことを認識して見渡せば、現状においては極めて多様な選択肢があって、何ら不満はない。したがって、面白い製品の出現がないことに対して欲求不満に陥っているわけでもない。ところが、2012年11月1日、月刊情報誌「日経トレンディ」が「2012年ヒット商品ベスト30」を発表し、「フィットカット カーブ」の名の事務ばさみを何と第5位にランク付けしたとのことである。【2013.1】 


   このランキングは2011年10月から2012年9月の間に発売された製品・サービスを対象とし、「売れ行き」「新規性」「影響力」の3項目に沿って日経トレンディが独自に判定したものとしている。

 実はこれより先に、東急ハンズの売り場で、この製品の実演販売をしている風景を横目で見ていて、まあたいしたことはなかろうと足も止めなかった記憶がある。しかし、廉価なはさみが第5位とは解せない事態であり、びっくりするような製品が簡単に生まれるはずがないと信じていることから、現状認識を目的として標準的な製品を調達してじっくり検分・評価することとした。
 
   
 製品の外観
 
   フィットカットカーブ(チタンコート)

 外観は普通の普及品の事務ばさみと大きな違いはない。百円ショップの夥しい数の製品に混ぜたら、完全に溶け込んでしまう。

 よく見ると、カシメ部分のすぐ先が不自然なほど急に幅が狭くなっているのが目につく。これが刃のカーブを強めることに伴う宿命的な構造である。

プラス株式会社
東京都港区虎ノ門4丁目1番28号
   
 製品の売り文句等 (会社ホームページ及び製品台紙の説明書きより編集・構成)   
   
 
 @  家庭用はさみ「フィットカット カーブ」を新発売。新開発カーブ刃で切れ味が約3倍※1に! 軽い力でスパッと切れる新開発のカーブ刃!
(※1 当社従来品比実験データによる)
 
 A  根元から刃先まで切断に最適な刃の開き角度(約30°)を常に保つゆるやかなカーブを持った “ベルヌーイカーブ刃※2” を新開発。刃の根元から刃先まで、軽くなめらかな切れ味を実現しました。
(※2 刃のカーブを設計する際に参考にした、流体力学の祖とも言われる研究者ベルヌーイの名前から命名)
 
 B  紙はもちろん、切りにくかったものがサクサク切れる!厚紙やプラスチックなど家庭内のさまざまな用途に対応。(家庭内でのはさみに関する調査を実施したところ、薄い紙を切る機会はわずか8%。) 
 C  指が痛くなりやすい部分には、指をソフトに包み込む弾力性のあるエラストマー素材を厚めに使用。 
 D  シャープな切れ味を実現する“高角度仕上刃 
 E  高硬度チタニウムをコーティングすることにより、50万回以上※の切れ味の持続とサビにくさを実現しました。(実際に人の手で50万回以上PPC用紙(64g/u)を切断してテストしています。) 
 
   
    売り文句に関する考察

 その前に、このはさみの用途について確認しなければならないが、会社では「家庭用はさみ」としている。この表現は微妙である。オフィスの引き出しに収まっている事務ばさみは、通常は一枚の紙や細紐を軽やかに切ることができればOKであるが、「家庭用」では定義がない。実態的には、一枚の紙を軽やかに切ることに加えて、そのはさみがワイルドな扱いにどの程度耐えるかという仕様・能力を見極めて加減をしながら使うのが普通であり、その用途の幅は正にそのはさみの特性如何にかかっているからである。
 したがって、このはさみは多目的な雰囲気を漂わせつつもそれほどワイルドなものでもなくどっちつかずな印象があるから、事務ばさみとしてみた場合と、多目的ばさみとしてみた場合の両面で評価する必要がある。
 
   
@  新開発カーブ刃としていることについて 

  まずは、カーブした刃線は革新的なものなのかについてである。
 結論を先に言えば、はさみには長い歴史があって、その目的により様々な仕様が生まれた経過がある中で、様々な曲率の刃線を持つはさみが現に存在し、その効果は既知の知見である。例えば、切れ味にうるさい和洋裁の裁ち鋏は刃線が軽くカーブを描いているのが普通であり、事務鋏の多くも刃線がカーブを描いている。さらに、理美容はさみではカーブした刃を「笹刃」と呼んでいて、様々な曲率のものが存在し、その特性に応じて利用されている。したがって、刃がカーブしているだけで感心していてはダメである。
なお、「ベルヌーイカーブ刃」の語は高度な技術と思わせるための目くらましのようなものであろうから、惑わされてはならない。
   
A  切れ味が約3倍としていることについて

 これは会社の旧製品と比較したものとしていて、旧製品はよく知らないが、仮に相当出来の悪いものであったのなら3倍といっても意味がないし、客観性にも欠けるためスルーさせていただく。
 そこで、カーブした刃線の特性に関して考える。
 刃線のカーブを強くすれば切る力(繊細な切れ味はまた別の要素)が向上するのは当たり前で、そのわかりやすい例が太枝も簡単に切断できる剪定鋏の強いカーブを持った刃形である。その理屈はカーブした刃はあたかも引きながら切るのと同様に働くことで普通に説明されている。しかし、ハードな用途のはさみがすべて曲線刃ということではなく、鋼材の剛性や硬度、刃角等、柄の長さ等の設計と合わせて総合的に考えら(設計され)れているものと思われる。繊細さと高い耐久性を求められる高価格の理美容はさみでも刃線の形状はいろいろである。
 一方、見ればすぐに合点できることであるが、刃線の曲がりを強くすればするほど刃渡りは短くなり、さらにカシメ付近の刃幅を不自然なほどに狭くせざるを得なくなる。フィットカットカーブでもその制約が伺える。
 
   
B  刃の開き角度約30°を常に保つとしていることについて

 本当に開き角度約30度を維持するかは最も興味深い点であり、実際に確かめてみた。開きの程度に応じた交差部分の角度は、概ね以下のとおりであった。
  約30°(写真No.1)→ 約20°→ 約20°(写真No.2)→ 約20°→ 約25°(写真No.3)
 残念ながら、約30°を維持するという表現にはやや無理があることがわかった。本当に30°を維持するとなると、Aでも触れたとおり、実は形態的に相当な無理(制約)が生じることがわかった。
考えればわかることであるが、小さいはさみなら何とかなるものの、刃長を確保するには無様なほどに刃幅を確保しなければならなくなる宿命があり、実用デザインとしては破綻してしまう。
   
 
     
 No.1 約30°   No.2 約20°    No.3 約25° 
   
C  家庭で薄い紙を切る機会はわずか8%としていることについて

 これは、このはさみを多用途に対応できるものとして目指した理由に掲げているものである。しかし、実態に照らすと疑問がある。一般的には、そもそも万能ばさみ1本で済ましている例はほとんどないと思われ、普通の家庭では複数のはさみを目的に応じて(もちとん使いやすい製品を)使い分けている実態も多いと思われる。このことを無視して十把一絡げで使用比率を掲げても意味がない。
 
   
D  刃先まで軽くなめらかな切れ味を実現したとしていることについて

 薄紙を刃先までスムーズに切れない場合、それははさみの資格はないということになり、普通は刃先がひどく傷んでいない限り支障は見られない。ただし、厚紙となると一般的な事務ばさみで刃先までチョキンとやりにくいのは事実で、これに対してフィットカットカーブは刃先でフィニッシュできることを確認した。これは宣伝しているとおり、刃先を使う際も角度(約25°)が付いていることによるものである。(一般的なはさみでは20°弱)
 ただし、厚紙を切る際に刃先まで使ってチョキンとやることを繰り返すのかというと、実際には(刃先の使用は力を要するため)刃の長さの途中、3分の2から4分の3程度まで切って、また刃を開いて繰り返して切るのが普通の使い方である。そもそも特に刃先を使用するのは「握りばさみ(和ばさみ)」くらいなもので、したがって、このことで他の製品に対して優位性があるとまでは言い切れない。
 
   
E   柄部のエラストマー樹脂の採用について

 これは厚紙等を切る際に手が痛くならないようにという配慮のようである。どうしてもこうした小さいはさみで厚紙やダンボールを切りたいという者がいるのであれば、軟質樹脂は効用となるかも知れない。個人的にはハードな紙に対しては手の当たりのよいもっと丈夫なはさみを使うから、このことには全く関心を持てない。また、この軟質樹脂はほこりが付着しやすく、個人的には好きではない。
 
   
F  高角度仕上げとしていることについて

 刃物はその用途に応じて、あるいは刃持ちの考え方により刃角が決められていて、二段刃とすることもある。したがって鋭角であればよいというものでもないことは広く知られているところである。そこで、このはさみに関して、「高角度」としていて、この用語は意味不明であるが、別に他のメーカーのはさみの刃角と大きく異なる印象はなく、趣旨がよくわからない。 
   
G   チタニウムコーティングにより50万回以上の切れ味を持続としていることについて
 

 これもよくわからない。はさみの刃が交差する際に接触している部位は刃裏の刃線部のみであり、この接触部分は何をコーティングしようと刃同士の強い摩擦でその保持は全く困難であるからである。フッ素コーティングのタイプについては、テープの貼り付きを抑制する目的で一般化している仕様であり、これなら誰でも理解できる。
  
   
 個人的な感想 
   
@  事務ばさみとして見た場合

 事務ばさみは薄紙を軽やかに快適に切るのが使命であるが、
フィットカットカーブは欲張って厚紙を意識したせいか、かみ合わせがひどく重い。薄紙を切るのにこの重さはつらい。刃物の専門メーカーであれば、こうしたかみ合わせのよろしくない製品の供給はありえない。 
   
A  多目的ばさみとして見た場合

 デザイン自体は事務ばさみのそれであり、華奢な体でハードな使用に耐える工夫をするというのは、やはり少々厳しい印象がある。
 要は道具の機能はその目的にふさわしいものであるべきであり、自ずとそのデザインが定まってくるものである。ある程度の利用の快適さを求めるのであれば、それにふさわしい複数のはさみを使い分けるのが普通の感覚であろう。
    
B  結論

 結論的には、このはさみは「決して快適でなくてもよいから、簡便な小型のはさみ1本で何とか済ませたい」という場合に選択した場合は実に気の毒なことである。それであれば、むしろしっかりしたキッチンばさみや万能ばさみの方が明らかに使いやすい。 

 話題などほとんどないはさみの世界で、実演を交えた上手な宣伝を活用した演出等が功を奏し、会社としての販売戦略は大成功であったに違いない。しかし、目くらまし的な宣伝文句にはやや誠実さを欠いた印象があり、同業他社もこれを横目で見て、「それほどのことでもないのにねえ・・・」とぼやいていたかもしれない。

 この製品は中国で生産されていて、別に特許あるいは実用新案でも何でもないから、百均に製品を出している中国企業がパクるのは簡単である。しかし、今のところパクリ製品は目にしない。パクることで直ちに優位性が生じるとは見ていないのかも知れない。 → その後の様子についてはこちらを参照。

 後学のために調達したのであるが、わが職場、家庭のいずれにおいても既存のはさみの機能には遠く及ばず、既に民俗資料として静かに眠っている。

 なお、本製品は2,012 年グッドデザイン賞を受賞しているとのことであるが、本賞は既に運営団体のためのシステムと化し、手数料稼ぎのための大盤振る舞いが批判されるところとなっている模様であり、特に気に留める必要はなさそうである。
   
                         実用品としてのはさみの例
   
   別項でも登場したはさみで、高いはさみはもったいなくで職場に置けないため、少々ワイルドにも使えるこのはさみを引き出しに入れている。
 全長20.5センチの中型の裁ち鋏タイプで、普段使いとして非常に扱いやすくて気に入っている。適度な重さにも由来してバランスが良く、持ち手の形状もよく手に馴染み、刃部はペラペラのステンレス板とは全く違った安定感と堅実な切れ味を実感できる。数十年経過するも刃先の切れもよく、少々下品ながら鼻毛もチョキチョキ軽快に切れる。