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  樹の散歩道  
   栗林公園の栗林≠ヘ何処にあるのか?  


 高松市の栗林公園の名前は有名であるから、多分歴史のある庭園で、さぞや枝振りのよい栗の大径木が多数配されているのであろうといった印象があった。しかし、日本庭園に栗の木はどうしてもイメージしにくいし、どのように築庭しているのか少しだけ気になっていたが、特に深く考えることでもないから、わからないままになっていた。
 あるとき、機会あって、短時間ではあったがこの庭園を散策することができた。果たして、名木級の立派な栗の木が存在するのか。【2011.3】 


 栗林公園は高松駅の南方、3キロほどの距離に位置している。さて、庭園内を歩き始めたものの栗の木などさっぱり見当たらない。ほどなく庭園管理の仕事をしていた職員(誇り高き公務員の職人だそうである。)が数人いるのが目に入り、栗の木の所在を訪ねてみた。すると、あまり積極的ではなかったが、この先に大きくはないが栗の木が何本かあることを教えてもらった。その反応振りからは、わざわざ見るほどのものではないということが十分に伝わってきたが、真実を探求するため、通路からその方向をのぞき見ながら歩くも、確認できないままに通り過ぎてしまった。
 まあ、名木級でもないし、小径の栗の寄せ植えにこだわることもないため、後戻りして探索するのはやめにした。
 
 
栗林公園 飛来峰から南湖を望む
 
  公園の印象は、やはり香川県、高松市の顔でもあり、きっちり管理が行き届いていて、歴史も感じさせる雰囲気があった。しかし、栗の木はどんな運命を辿ったのであろうか。

 これを知るには学習が必要で、とりあえずは入園のチラシを見ると簡単に解説されていた。
 
 「藩政時代、北庭に備荒林として栗の木が多く植えられていたために「栗林」の名があるが、10代藩主頼胤(よりたね)が嘉永3年(1850年)に鴨猟の邪魔になることからこれを伐採し、わずかに残った3本を百花園(薬園)の西に植えたが、すべて枯れたといわれる。現存する10数本の栗の木は、昭和46年に32本植栽したものの一部である。」
 
  また、平凡社世界大百科事典には次のようにある。
 
 「高松の最初の藩主生駒氏の時代には御林(おはやし)と呼ばれた御用林があり、備荒のためにクリの木が植えられていた。その中の下屋敷が栗林荘の前身である。1642年(寛永19)藩主となった松平頼重は栗林荘を改修し、64年(寛文4)ここに隠退した。」
 
 沿革的には栗の木の存在を確認できたが、やはり庭園の景観を形成する素材としては適合しないと想像したとおり、庭園木としての存在ではなかった。

 しかし、栗林公園の名を背負っている限り、来園者の中には、

  栗林公園といいながら、栗の木が何処にも見えないではないか!! 

  これでは看板に偽りありではないか!!

  栗がないのなら名前を変えるべきだ!!

 と、職員に詰め寄ることはないにしても、皮肉タラタラ、嫌みチクチクの声を発する風景は十分にあり得ることである。

 実に情緒に欠けることではあるが、厳しい現実に身を置く公園管理者としては仕方なく、景観を損ねない場所に幾らかの栗を植栽すると共に、案内のチラシにもその位置を以下に示すように小さく控えめに書き込んでいるのであろう。  
 
 園内の見取り図に書き込んだ黄色の枠内にクリの実の小さなイラストが見られる。(拡大図は次を参照)
 
 上記見取り図の黄色の枠内の拡大図である。特にコメントなしの慎ましやかなクリである。
(矢印は書き入れたもの)
   
 拠点ごとの説明書きのある別の園内見取り図(上の図と同じ部分)である。先に紹介した栗の沿革の説明は、このチラシの記述内容である。 
(矢印は書き入れたもの)
   
 
 なお、チラシには以下のような本公園(庭園)の沿革の概要が記されている。
 
 「本園は、元亀、天正(1572〜1593)の頃、当地の豪族佐藤氏によって、小普陀(しょうふだ)付近に築造されたのに始まるといわれ、その後寛永年間(1625年頃)当時の讃岐領主生駒高俊公が紫雲山を背景に南湖一帯を造園し、さらに寛永19年(1642年)に入封した高松藩主松平頼重公(水戸光圀公の兄)に引き継がれる。
 以後5代頼恭(よりたか)公に至る100余年の間、歴代藩主が修築を重ねて延享2年(1745年)に完成し、明治維新に至るまで松平家11代228年年間にわたり下屋敷として使用された。
 園内は、南庭と北庭に分かれ、6つの池と13の丘があり、南庭は江戸時代初期の回遊式大名庭園である。また北庭は鴨場として使われていたものを明治末から大正初期にかけて近代的に整備改修した庭園である。」

(明治43年発行 国定高等小学読本(抄))
 「我ガ國ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金澤ノ兼六園、岡山ノ後樂園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト稱ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ッテ此ノ三公園ニ優レリ。」
 
 
<余談:栗の名を持ちながら栗を失った町のはなし>

 北海道の空知総合振興局管内に、「栗山町」の名の町が存在する。唐突に栗が登場することはあり得ないことで、やはり町名の由来は栗に因んでいて、アイヌ語で「栗の木の繁茂しているところ」という意味の地名の意訳によるものとされている。
  
 この名前につられて、かつて駅周辺で栗に関連したいい物がないものかと探したところ、かろうじて「ジャンボ栗まんじゅう」があった程度で、勝手にがっかりしたことがある。後で調べたところ、日本各地の例と同様、昔は豊かであったであろう栗の木は既に失われていて、町名だけにその痕跡が残っているようである。したがって、栗まんじゅうの栗も他地域産なのであろう。

 しかし、こうした状況にあって、地元ではやはりこれを気にしてがんばる人たちがいるようである。「北のくりやま栗づくり協議会」の下に国内最北の栗の産地化を目指すプロジェクトが、2010年からスタートしたそうである。既に例の「ぽろたん」を含むクリの苗木の植栽も始まっているという。

 なお、同振興局管内には、かつては「栗沢町」の名の町も存在した。やはり、町名の由来はアイヌ語で「栗の多い沢」の意味の地名の意訳によるものとされ、2006年3月に岩見沢市に編入合併されている(現在は岩見沢市栗沢町)。ついでながら、「栗山」と「栗沢」の両駅に挟まれて、「栗丘」の名の駅(岩見沢市栗沢町栗丘)が存在する。

 北海道から九州まで自生するクリであるが、昔は大きな栗の木が各地に多数あったのであろう。 
 
【追記 2011.4】

 栗には全く関係ないが、栗山町には四角いきびだんご参照)で有名な谷田製菓株式会社 がある!!