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刃物あそび
 明珍の火箸とはこれ如何に
  明珍は甲冑やら火打金だったのでは・・・


 姫路駅で少々時間をつぶす必要があって、駅前の「じばさんびる郷土名産コーナー・播産館」を見物していたところ、一角に妙な黒い棒が多数ぶら下がっているのを目撃した。近寄って手に取って観察すると、いろいろなデザインの火箸が黒い糸で宙吊りにされていたのである。これだけでは「何じゃこりゃ」であるが、名称を見ると「明珍火箸風鈴」とある。名称を見てもなお「何じゃこりゃ」である。明珍みょうちん)の名は聞いたことがあるが、確か甲冑やら時代下って火打金の世界ではなかったのか。これは姫路のミステリーである。 【2009.12】


                        明珍火箸            
 様々なデザインのものがあり、写真はもっともシンプルなタイプの一つで、「瓦釘型」と呼んでいる。他につくし型、つづみ型、わらび型等の名の製品がある。
   
                       明珍火箸の頭部
 頭部のアップ写真で、「第五十二代」、「明珍宗理作」の刻印がある。こうした鉄の質感は実に魅力的である。昔の和釘を思わせる印象がある。
播産館(財団法人 西播地域地場産業振興センター)
 兵庫県姫路市南駅前町123番(姫路駅)
明珍の火箸風鈴は姫路市内に製作所である「明珍本舗」があって、聞くところによると駅前よりも多くの製品を直売しているそうである。
有限会社明珍本舗
 姫路市伊伝居上ノ町 112
(注) 現在の当主である明珍宗理氏(本名:明珍 理(おさむ)氏)は平成4年に52代目を襲名したとされる。

 明珍の系譜

 明珍の系譜と作品については甲冑に関する文献でしばしば論じられている。明珍は甲冑師(正確には兜(かぶと)その他の鉄鍛えの部品造りの下職であったという。古くは轡師(くつわし)であったとも。)の一流派で、自らの伝承では平安時代に初代が近衛天皇から名を賜ったとしている。しかし実際に甲冑の作品をみるのは室町時代以降からとされる。よくあることであるが、ある流派、家系が一定の評価を得たときに、過去にさかのぼって系図を整えるのは珍しいことではなく、明珍の場合も同様の模様で、さらに各地の他流派・その作品の取り込みもあったとされる。つまり、決して明珍系図どおりの連綿たる一族、家系というわけでもないようであり、また、古い時代の作品とされるものに関しても由来がよくわからないものも多いとされる。したがって、あくまでこれらは物語として受け止めればよいものと思われる。しかしながら、作品の鍛えの良さに関しては評価が一致している模様である。
 明珍の火箸と風鈴火箸

 明珍火箸に関しては、実は広辞苑でも認知されていて、「明珍製作の火箸。千利休の依頼により茶室用に作ったのが始まりという。現在は兵庫県の工芸品で、風鈴などに造る。」とある。これも真偽のほどは確認の術もないが、話としては面白い。
 兜作りからなぜ火箸作りなのかについては、要は武具の需要がなくなった明治以降、姫路在住の明珍家が生業として火箸づくりを本業とし、先細る需要を風鈴火箸の考案で持ち直し、姫路市の特産品(兵庫県指定の伝統的工芸品にもなっている。)として知られるまでになったということである。
 火箸がぶら下がっているのを見ると、火箸が気の毒で仕方がないが、手仕事の技がこうしたかたちであれ生き続けているのは喜ばしいことである。
 なお、念のために触れておくと、風鈴火箸はあくまで火箸の他用途転用であって、火箸の機能を失っているものではない。しかし、もっぱら風鈴として名が知られている現在では、期待に応えるべく音にこだわった製品作りに励んでいることは事実のようである。
注:本来の用途に供されている姿はこちらを参照。

 参考として明珍火箸に添付されているしおりの内容を以下に紹介する。
                 明珍鍛冶由緒書

我ガ明珍ノ家系ハ遠ク武内宿弥八代ノ孫大口臣ヨリ出ズ、大口臣ノ二子宗次増田宇佐磨ト称シ大和ノ岡本ニ住シ世々甲冑匠タリ、宗次二十二代ノ孫宗介紀ノ太郎ト称シ京都ノ九条ニ住ス、近衛天皇ノ勅命ニヨリ鎧轡ヲ作リテ上ツリシニ叡感斜ナラズ音響朗々光リ明白ニシテ玉ノ如ク類稀ナル珍器ナリトテ明珍ノ二字ヲ賜ヒ出雲守ニ補セラレ武内増田明珍唯一ノ甲冑匠ノ称ヲ賜ハレリ是レ明珍家ノ始祖ニシテ其子宗清以下代々甲冑ヲ作リテ其業ヲ子孫ニ伝フ、後醍醐天皇ノ御宇元弘元年三月楠正成公ノ憑ニテ宗介九代ノ孫宗政甲冑ヲ作ル是レ大黒ノ甲ニシテ楠社ノ神宝タリ、後世宗介ヨリ以下宗安マデヲ十代ノ作ト称シ殊ニ珍重セリ、天正二年勝頼公御着ノ諏訪法性甲ハ宗介十七代ノ孫信家ノ作ニシテ是レ諏訪社ノ神宝ナリ、宗介二十二代ノ孫義時始メテ酒井雅楽頭忠清公ニ仕ヘ上州厩橋ニ住ス、義時ノ玄孫宗房播磨ノ国姫路ニ住ス、実ニ不肖宗之ヲ以テ世ヲ伝フル五十二代年ヲ経ル乃チ千余年而シテ火箸ノ作タルヤ四十八代百翁宗之ノ考案ニテ祖先伝来ノ鍛錬法ヲ応用シ製作セルモノニシテ共各一端ヲ糸ニテ垂下シ両辺相触ルルトキハ音響朗々恰モ鈴虫ノ声韶ニ異ラザル特趣ナリ仍ツテ明珍火箸ノ名声又大ニ揚リ忽ニシテ姫路重要物産ノ一ニ算ヘラルルニ至レリ、明治四十四年十一月、明治天皇姫路に臨御ノ際之ヲ上ツリシニ叡感斜ナラズ県下重要物産中ヨリ特ニ御買上ゲノ光栄ヲ蒙リ先代宗之感激措能ハズ益々熱心鋭意治工ニ従事シ其技妙域ニ達シ各博覧会、共進会、協議会等ニ於テ多クノ金銀賞牌ヲ受領、広ク海外ニテモ愛好サル、不肖五十二代宗理モ亦累代ノ家声ヲ失墜セザランコトヲ欲シ明珍鍛冶ノ本領ヲ失ハザル限リ鋭意精良ヲ計リ多ニ数種ノ技芸品ヲモ併作シ以テ広ク江湖諸彦ノ眷顧ニ酬ヒントス冀クバ幸ニ御愛顧アランコトヲ

 明珍火箸各種
 火箸風鈴各種
 茶用釜カン
 床置物用海老各種
 花器・柱掛等
姫路名産 明珍本舗
五十二代 明珍宗理 謹識
姫路市伊伝居上ノ町百十二番地
 明珍の火打金

 「明珍の火打金」がかつて存在したことは承知していたが、さすがに広辞苑や百科事典でも採り上げられていない。

 文献情報としては次のようなものを目にした。
 火打金(ひうちがね。「火打ち金」とも表記。)は大阪、京都での呼び名で、江戸では火打鎌(ひうちがま)と呼んだ。よく火花を出す火打金はハガネで、京都の明珍上州の吉井が有名である。「火打ち鉄(ひうちがね)」、「燧鉄(ひうちがね)」とも表記。
【日本民具辞典(株式会社ぎょうせい)ほか】
 近世には京都に甲冑鍛冶の明珍や久吉(注:「吉久」の誤植か)・吉守などの鍛冶所があり、火打ち金を製造して全国に売り出していたし、江戸時代末期には上州に吉井家という製造元があった。【日本民俗大辞典(吉川弘文館)】
 近世には京都の明珍・久吉?・吉守などの鍛冶所が盛んに火打金を製造して、広く全国各地に売り出していた。(中略)甲冑鍛冶の名匠として世に聞こえた京都明珍(ミョウチン)の火打金は名高く、他の鍛冶所の製品よりも練りがよいということで、享保の頃には「本家明珍」の銘が木部に記したものが広く行われた。また、江戸末期には上州吉井家の火打金が優良品として知られ、「吉井本家請合」の銘が焼印されていた。【宮本馨太郎】
 火打,火口を商う者は、江戸では升屋(芝神明前)、京都では吉久、大阪では明珍の三社の独占になっていた(享保20年制定された「香具師免許状」による)という。ほぼ天保改革の前後から、上州の吉井火打鎌が江戸の市場に進出し、衰運の本升屋を駆逐し、その後も幕末から明治にかけて、吉井製品が江戸の市場を独占した。【花咲一男 江戸行商百姿】
 江戸時代など、ちょっと前のことであるから、明珍の焼き印のある火打金がいくらでも残っていると思われるが、京都市内の民具資料館を覗いても、残念ながら明珍の火打金の痕跡を確認することができなかった。
注1  これらの資料を見ると、明珍の火打金の製造は京都で、シェアは京都よりも大阪で高かったと読めなくもないが、この理解でよいのかは不明。
注2  呼称に関して、京・大坂では火打金(ひうちがね)、江戸では火打鎌(ひうちがま)の名があり、また燧金(ひうちがね)の表記もあるが、本項では便宜上「火打金」の呼称を統一的に使用する。
注3  火打鎌の名は、もとは専用具を使わず、農家などで鎌の古いものや折れた端の鉄片用いたからだといわれる。【岩井宏實】

火打金の行方

 生活用品としての火打ち金は明治時代にマッチが普及したことで絶滅したため、民俗資料館のような施設の展示物として見ることは可能である。ところが、不思議なことに現在でも火打金がしばしば販売されているのである。
 火打金、火打石、火口(ほくち)、付け木をセットにした火打箱(火口箱とも)の事例
神戸らんぷミュージアム  神戸市中央区京町80
 火打箱(神戸らんぷミュージアム)

 火打金3種

:おなじみの吉井の製品である。
:「請合」の焼き印を判読できるが素性は不明。
:これも素性不明で、使い込んだためハガネ部の中央がすり減っている。

京の田舎民具資料館
  京都市山科区小山小川町2番地
  代表者 竹谷誠一
        吉井の火打金のセット 
吉井のセット品
。火口の袋の「秘伝火口」とした謎めいた表記が楽しい。付け木はシナノキであろうか、先端にはちゃんと硫黄がついている。おまけに和ろうそくまでセットになっている。是非子供の教育に使いたいものである。
      板付鎌の名の火打金  
 「本家 板付鎌」とあるが、製造元は不明。「鎌」の字があるから関東系であろうか。
 京都伏見稲荷周辺の複数の神具店で扱っている製品である。
   
 よく知られているのは「登録商標 吉井 本家請合」の焼き印のある製品である。上州で江戸時代からずっと生産されているわけではなく、商標を得た都内の製作所が生産しているもので、ネット通販で知られているほか、東京江戸博物館でも火打石、火口(ほくち)、付け木もセットにして販売していた。旦那様が出勤するときに美人妻がカッチカッチやる風景はこの世にあり得ないから、ほとんどが遊び心での購入と思われる。一方、子供たちに対する社会勉強のいい教材にもなると考えられることから、こうした用途もあるのではないかと思われる。
 製造・販売者の製品チラシ及びホームページでは以下のように説明している。
   
「伝書によれば上州吉井宿の刀鍛冶孫三郎の女房りうが作り始め、武州秩父三峰峠観音寺をお参りした旅人が買い求め江戸で評判となり、文政頃から浅草御蔵前にのれんを出し、幕末から明治にかけ火打鎌のトップブランドとして吉井の火打鎌は当時火の出においては右に出るものはなかったと云われてました。
 弊店は四代にわたり火打石と火打鎌の製造を今でも行っています。初代は中央区日本橋で群馬県吉井宿より火打鎌を仕入れて金物問屋を営んでいたが産地の吉井宿では鍛冶屋がつぎつぎと廃業して火打ち鎌を作らなくなりそれならばと商標権と販売権を得て明治4年に初代が製造を始めたのがきっかけとなり、今日までその製造は細々ですが連綿として継がっています。」 
吉井本家(伊勢公一商店)
  東京都 墨田区 東向島1丁目13−7
   
 生産者ではないが、複数の軒を並べた店が販売している風景が京都市内で見られる。伏見稲荷大社界隈である。場所柄、神具類を販売する店が多く、これらのほとんどの店舗で火打金と火打石を販売していた。製品は先の吉井の木の持ち手のある板付き型と、同じく吉井の刻印のある木の持ち手のない丹尺型(中ぶくれした長方形)が見られたほか、生産地は不明であるが、○に八(以下「丸八」と呼ぶ。)の商標と「板付鎌」の焼き印の入った板付き型と、商標を刻印した丹尺型が見られた。
株式会社 友田神具店 「神具の福乃家」 ほか扱い
  京都市伏見区深草藪ノ内町58
   
 吉井と丸八の火打鎌を見比べると、柄はいずれもホオノキであるが、やや形状が異なる。ハガネ部も厚さ、大きさのほか、表面仕上げも異なるが、いずれもかすがい型に打ち抜いた鋼材をホオノキの板に打ち込んだ構造である。ハガネの硬度に関しては、両者を戦わせたところ、吉井の方が硬さでは勝っていた。 
 神具としての「お清め」用が建前としての主たる用途であるが、このうちのある店舗のホームページには、これに加えて「お札の入れ替え時や、一家の主がお仕事などにお出かけになる時にお清めの火でお送りください。」とした説明を付していた。この利用を「切り火」と呼んでいる。
 「切り火」の説明については以下の記述が参考になる。
   
@ 切り火:火打ち石を用いて火を起こすこと。また魔除けのために火花を切って清めること。
神社の祭壇や家々の神棚に火打ち石と火打ち鉄を常備し、実際に火を起こさなくても火花だけを飛ばし、神前を清めることが行われ手いる。また外出や旅行に出発する人の背後から切り火をして、清めの火花を打ちかけることもあり、魔を祓い、神の加護を得ようとする行為であった。現在でも縁起を担ぐ商売の関係者などがよくそれを使う。【吉川弘文館:日本民俗大辞典(抄)】

A 当時劇場の出勤に俳優(やくしゃ)をはじめ、一同家を出づる時は、必ず当人の背(うしろ)より火打鎌・火打石を取り出して切り火をなす。これは身の穢れを払いて吉兆を神に願う心なりとなり、芸者・幇間・寄席の出方及び船宿の船頭且つ興行見世物の出方等、皆同じ。これ等の世渡りをするものはなおさら、工商とも、朝々神棚より店頭を清むるとて打火を出して神拝をすること、これまた同じかりき。【絵本江戸風俗往来】

B 切り火(厄除け、清め、大願成就祈願)
切り火は厄払いや邪気を祓う日本古来の風習です。利き手に石を持ち一方の手に火打金を持ちます。石の鋭い角でカーブした鋼鉄の縁を削り取るように勢いよく前方に向かって打ちつけます。いく筋かの火花がはじけ飛びます。この火花を清めたい場所や出かける人の右肩口に後ろから二、三回カチカチと切り掛けるのが作法です。【吉井・製品チラシ】
   
 しかし、一般の家庭でのこうした使用は慎むのが賢明であろう。たとえ面白半分であっても女房が突然背中でカッチカッチとやったら、間違いなく「あんた、いい加減にもっと出世してよ!!」と言わんばかりの嫌みとして受け止められて、家庭不和を招きかねないからである。
 よい火打金とは

 江戸時代には特定の製品が支持され、高いシェアを有したことが伝えられているが、それが営業努力によるものなのか、それとも製品の品質に由来するものであるかに関しては特に論じたものを目にしたことがない。
 そもそも火打金は刃物のように難しいものではなさそうであり、いわばハガネのかけらと思ってもよいと思われる。ハガネとすれば硬度の違いの存在しか考えられない。では、どの程度の硬度であれば使いやすいのか?
 試しに、軟鉄とハガネの鉄片ををグラインダーに掛けてみると、同じように見事に火花(赤熱した鉄粉)が飛ぶ。これでは全くヒントにならない。次に軟鉄を火打ち石に打ち付けてみたが、火花を発することは困難であった。やはりある程度の硬さが必要なようである。念のために火打金(丸八)と軟鉄で硬さ勝負をしたところ、火打金の方がやや硬いといった印象であった。丸八より吉井が硬度で勝っていたことは先に触れたとおりであるが、さらに火打金(吉井)とカッター刃で硬さ勝負をしたところ、カッター刃がやや勝っていた。とまあ、こんな感じである。

 火打石の硬度と相性のいい硬度があるということなのであろう。科学的なコメントはできないが、神経質になるほどの繊細さが求められる製品ではないと思われる。

 現在手元にある先の2製品のハガネ部分を見ると、断面、その他の形状から鋼材を単に打ち抜いたものであることがわかる。鍛造のプロセスはないから、製品の質は既製品の鋼材の選定(もちろん熱処理を含む)のみに由来することになる。 
   
<参考>
 
@  火打ち石、燧石

 
火打ち石には主に石英の一種である燧石(すいせき)を用いたが、メノウ、水晶なども使用した。【日本民俗大辞典】
   
A  火打金、火打石の使い方の説明例

 普通は左手に火打石を持ち、その面の上に一つまみの火口ほくち)を載せ、これを親指で押さえ、右手に持った火打金で強く石の角を擦りながら火口に火をつける方法で火を起こした。【岩井宏實】

(竈の場合):ほくち(火口。この場合はイチビの茎の皮を剥いだものを消し炭にしたものなど。ほくち殻。)の上に火打鎌をかざし、火打石にて火を打ち出して、ほくちに火を移す。木片の先に硫黄の付きたる付木つけぎ)という、その付木の硫黄にほくちの火を移し、竈の下へ移して飯を炊くこと江戸一般の習いにて、これを捨てて他に火を取るの道、絶えてあることなし。
(野外散歩、旅人道中の煙草の火の場合):袋につめたる綿ぼくち(厚紙を揉みやわらげたものなどを使った。「吉井ぼくち」とも)を摘み取りて火打石の上に置きて、飛び散らざるよう指先に持ちて火打鎌を石に打ち付けて出づる火を、綿ぼくちに移して用ゆ。【絵本江戸風俗往来】
   
B  「らくらく火打鎌」とは
 「らくらく火打鎌」の名の簡単に火花を出せるという、初心者用の製品が販売されている。普通の火打金よりも価格がやや高く、印象としては板にライターのフリントオーエルメタルの名の合金)を接着したもののように見える。(確認はしていない。)
【追記 2012.1】 
   
   明珍の使い込んだ火打ち金を確認できないままであったが、たまたま都内渋谷区の「塩とたばこの博物館」に立ち寄ったところ、何と!!「本家明珍」の焼き印のある火打ち金」が展示されていた。 
   
 
 左の写真のとおり、明珍の名の火打ち金がが先にも紹介した吉井の火打ち金と並べて展示されていたが、いずれも金属部を見れば明らかなように未使用の製品である。特に、明珍の方は新品同様で、いずれも復刻版≠ナあろう。

 博物館の職員に、明珍の入手先を訪ねたが、確認できなかった。

 明珍の火打ち金が再現販売されているとは聞かないから、これは謎の明珍である。

 なお、この明珍の木部はカシの木が使用されているようであった。