刃物あそび
前挽大鋸は何を語る
前挽大鋸(まえびおが)とは木挽鋸(こびきのこ)ともいい、人力で製板するための幅広の縦挽き鋸を指して呼ぶ。動力による製材機械が登場するまではこれで板材に製材していたわけである。昭和20、30年代までは出番が多かったという。現在でも製材機に架からない大きな材や銘木を挽く場合に声が掛かるようであるが、実用に供している姿を目にする機会は滅多にない。最近では前挽大鋸は博物館収蔵品状態で、現に神戸市の竹中大工道具館で多数これを見ることができる。【2008.2】 |
唯一の手持ちの前挽鋸 幸運にも知人から譲って貰った前挽大鋸である。ずっしりと重い。柄は手に優しい桐材である。なかなかの存在感で、毎日眺めたくて壁に吊してみた。もちろん家族からは不評である。 |
「大工道具の歴史」の著作で知られる村松貞次郎氏によれば、戦前の頃までは、ちょっと道具持ちのよい以大工さんは前挽大鋸を必ず備えていたという。16世紀後半にそれまでの二人挽きの大陸伝来の大鋸(おが)に代わって国内に登場して以来の歴史である。 この巨大な鋸は明治時代に入って製材機械が普及するにつれて徐々に主役の座を譲っていった模様である。しかしその課程にあっても、標準寸法以外の木材を利用する時は木挽(こびき。前挽大鋸により製材することを職とした労働者)に挽かせることが多かったという。 |
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江戸時代の木挽きの風景は、おなじみの葛飾北斎の富嶽三十六景のうちの「遠江山中(とおとうみさんちゅう)」である。現在の静岡県西部の山間部を舞台としている。
わざわざ山間部で作業するのには理由がある。当時は重量物である材を運搬するのは大変なことで、製材して運びやすくするのも選択肢であったわけである。 「木挽きの一升飯」という言葉は有名である。木挽きの仕事は重労働で、これを職とする者は大飯食らいであったことを言う。大飯を食わなければ体が持たなかったと言うことである。かつて木挽きをしていたという年寄りに当時の弁当の話を聞いたことがある。場所は木曽谷。メンパ(曲げわっぱ)の弁当箱の本体とふたの両方に飯を詰めてこれを合わせて弁当とし、日中二回に分けて飯を食ったとのことである。 現在では絶滅寸前の木挽き職人であるが、実は東京を主たる拠点として現役で活躍している職人がいる。林以一氏である。ちょっとした有名人で、口述内容が出版物になっているほか、取材記事でもちょくちょく目にする。主として銘木の大径材を相手に奮闘している。木挽き職人自体が数えるほどになっている中で、出番は多いようである。お弟子さんまでいると聞く。かつて都内の新木場で一般向けのデモンストレーションをしていたのを見学したことがあって、ちょっとだけ体験もさせて貰った。 ところで、機械製材が普通の現在、なぜ未だに木挽きが登場するのか。銘木の原木買い付けが経験と勘による博打に似ているように、その原木から最高の価値ある板を挽くのは経験と勘による真剣勝負のようである。原木の木目を読み取り最高の木取りをして鋸挽きするという、その職人技(わざ)が生きる場があるのである。さらに、そもそも機械挽きと手挽きには違いがあるのだという。機械製材に比べて手挽きのほうが歩留まりが格段によく(鋸挽きによるロスが少ない)、このことは原木が高額であればあるほど重要なことになる。また、手挽きの場合は機械挽きと違って熱を発生しないため、材面を痛めず挽き面もきれいで、杢もきれいに出るとも言われる。 林以一氏の語りが記録された本には基本的な用語が紹介されている。備忘録として以下に一部を紹介する。(「木を読む」1996.11.1、小学館) (林以一氏の仕事風景については別項を参照))
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木挽きの仕事に関しては、「墨かけ十年、読み一生」といわれたそうである。職人技を象徴する言葉である。木挽きが全盛期の時代にはノルマで量を挽く木挽きから高価な銘木を最高に生かし切ることに能力を発揮する木挽きまでたぶん役割分担もあったであろう。しかし、手挽きは大変な時間も掛かるし、相当の体力も使うし、やはり現在とは時間の流れが違っていたようである。 ところで、写真の前挽大鋸について、その素性は全くわからないし、誰が使ったかもわからない。刻印や銘があるが判読も不能である。いつの時代にどんな材をどれほど挽いたのだろうか。せめて生誕地くらいは知りたいものである。 |
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