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   木の雑記帳
      
     
民具・伝統的日用品

  かつての民具,伝統的な日用品全般をながめると,身近で手に入る木材を主体として,木の実の油脂,木の皮,竹,草本類,その他ほとんどが然素材で,再生産可能な資源に依存した循環型社会そのものであったことに改めて気づく。日本文化の復習,名称の整理を兼ねて,以下に植物系以外のものも含めて抽出してみた。

(注)引用・参考文献は別掲のとおり。
<分類表>
あかり 蚊遣り・蚊帳 食器 洗濯
発火 箱物 酒器 掃除道具
囲炉裏 脚物 勝手場 化粧等
かまど まくら 履物 喫煙具
採暖 文房具 衣類

あかり


行燈(あんどん)
とぼし油として江戸末期にはほとんど菜種油を使った。油皿に灯芯を入れてともした。油壺に継ぎ足し用油を入れた。
灯台(ともしだい,とうだい)が油皿を台上に置くのみで裸火をともすのに対して,行灯(あんどん)は油皿の周囲に立方形や円筒など形の框(わく)を作り,これに紙をはり,風のために灯火が吹き消されたりゆれ動くのを防ぐように,火袋(ひぶくろ)を装置した灯火具の総称である。
古くは灯台(ともしだい)を携行用にしたものですが、蝋燭が広く利用されるようになると提灯が携行用となり、行灯は室内用となりました。【国立科学博物館】
角行灯
丸行灯
 
角行燈は主として江戸で,丸行燈は上方で使われた。 
名古屋行灯  細い鉄棒で火袋を包み,角を直角に整えた行灯を名古屋行灯という。名称の由来は不明。【坪内富士夫】 
遠州行灯 
円周行灯
丸行灯のひとつで,小堀遠州の創案によるものともいう。開閉式で,半円が回転する仕組みとなっている。手元を明るくしたいときは火袋を開けた。円周行燈の呼称もある。 
有明行燈1  夜が明けるまで枕元に置いてともしておいたもの。寝室用。 明け方に残る月を「有明月(ありあけづき)」と呼ぶことなどからこの名がある。夜起きている時間は箱の上に置いて使い,寝るときは下の箱に収めて,小さな窓からもれるあかりを夜明けまでともした。
有明行燈2  満月や三日月をかたどった窓を持ち、明るさのほしい時には木枠の上に載せ、暗くしたい時には木枠の覆いをかぶせ、満月または三日月の窓から漏れる明かりをたよりとしました。
【国立科学博物館】 
枕行燈  @いわば常夜灯。A旅の携帯用として箱枕の箱の部分に仕込まれたもの。 
座敷行燈  座敷の照明に用いられた。 
灯芯1 農村部では以下の植物の髄が用いられた。
灯芯草:カンガレイ,イ(イ草)
灯芯の木:ヤマブキ,キブシ,ハナイカダ,ガクウツギ,ムラサキシキブ,ガマズミ
カンガレイとイは共に灯芯草といわれ、その代表格であった。夏に刈り取って皮を剥ぎ,中の髄だけを取りだして使う。木も中央の髄を灯芯とするもので,髄の発達の良いキブシやヤマブキの若木が主として用いられた。【長澤】
灯芯2 ヤマブキにはトウシンノキの方言があるが,深津は実験結果に基づき,ヤマブキの髄の燈芯としての利用について疑問を投げかけている。技術の消失か?
石油ランプ 幕末から明治時代にかけて西洋から入ってきたもの。日本人にとっては照明の一大革命であった。
無尽灯(むじんとう)  幕末のからくり師 田中儀右衛門がつくり、世に残したものとして有名。圧搾空気の力学と粘着の強い種油の流動性を巧みに生かして、口金(灯がともる箇所)常に適量の油を補給し、長時間にわたって耐えることのない灯火を得る仕組みとなっている。【坪内富士夫】 
注:氏の著作「あかりの古道具」に分解詳細図が紹介されている。
燭台(しょくだい)   主に室内に据え置く蝋燭立て。
手燭(てじょく) 人をある場所へいざなうとき使った明かり。文字どおり手で燭台を持つために柄が付いている。大方は蝋燭が光源だった。燃えやすい場所などでは特に蝋燭を使った。
提橙/提灯(ちょうちん) 蝋燭を中にともす携帯用の照明具。
印提橙 照明の必要な側の紋は薄く,反対の側の紋は濃く書くのが習慣だった。
傘提橙1 竹の産地,知覧で考案されたという。たたむと棒状になるが,広げて中心部を引くと,ふくらんで提灯になるもの。
傘提橙2 知覧傘提灯:南薩の小京都知覧で薩摩藩下級武士の内職として始められました。竹の一節を32等分して骨にし,それに和紙を張り合わせます。畳むともとの竹筒にもどります。閉じて武器,半開きで傘,全開すると提灯という一本で三つの働き。昔は「三徳傘」とも呼ばれていたそうです。【鹿児島県】
足元提橙 がんどう提灯とも言われ箱提灯の一種であるが、胴の下が細くなっている。上の輪が大きいため光は下の方に広がりやすく、足元を照らすのに都合が良かった。【浅草・大嶋屋恩田】
大提橙 江戸時代中期以降盛んに神社に献灯された。
高張り提灯1 大型の提灯で長い竿の先端に付ける。社寺等の門灯または行列の先頭の目印に。
高張り提灯2 長い竹竿または棒の先に提灯を取り付け、高く掲げて使用するもので、 高挑燈とも呼ばれました。高張提灯は、火事、婚礼、葬儀等 を始め、武家、貴族の邸宅や役所等の玄関の照明に使われました。【浅草・大嶋屋恩田】
弓張提灯1 竹の弓で上下を引っ張り下に置くことができる。箱提灯より略式で武家の日常用だったが後には商家も。
弓張提灯2 提灯の火袋を伸ばして、竹または鯨のヒゲ (現在は使われていない)で弓なりに張り、上の枠に付けられた金具を、 弓の上端に掛ける構造で、下に置いても提灯がたたまれない様になっています。【浅草・大嶋屋恩田】
長提灯 火事場や捕り物など非常時に使われる長形の弓張り提灯。持ち手が帯にはさめるようになっている(引っ掛け付き)。
ぶら提灯 棒の先にぶら下げて持ち歩いた最も一般的な提灯。提灯には自己を表すための紋か屋号を入れるのが決まりで,無紋は身分の高い人のお忍びとかごく特殊な場合しかない。
馬乗(上)提灯1 上等なぶら提灯で武士が馬上で腰に差すため鯨の筋の長い柄を付けたもの。馬上だけでなく一般にも用いられた。
馬乗(上)提灯2  侍が馬に乗りながら使えるように工夫した「ぶら提灯」の高級品。柄の先には,衝撃を抑えるために弾力性のあるクジラのひげを使用した。【あかりの大研究】 
小田原提灯1 折り畳むと薄く携帯に便利。相州小田原の人の発明とも。
たたむと着物の懐に入るので、「懐提灯(ふところちょうちん)」ともいわれた。直径10センチ程度の小さな提灯で,江戸時代の旅人などがよく使った。
小田原提灯2 上下の枠の間に紙張りの胴がすっかり収まるようになった小型の,懐中用の提灯。天と地の材料は薄板作り,銅,真鍮など様々であった。【前川】
小田原提灯3 18世紀の初め, 神奈川県小田原の武士が考案したもので,この名が起こったと言われています。【浅草・大嶋屋恩田】
岐阜提灯 ・紙に風流な絵が描かれたもので,盆に使うので盆提灯とも呼ばれた。
・お盆用(や納涼用)に広く使用されている。
*岐阜は美濃紙と結びついた提灯,和傘の産地でもある。
箱(筥)提灯1 上下に(丸い)蓋(ふた)のある、大形の円筒形の提灯。畳むと、(火袋の)全部が蓋の中に収まる。【大辞林】
火袋を伸ばし,棒を上から下に差し入れて固定すると,地面に置くこともできた。
箱(筥)提灯2 江戸時代には、 主として武家、貴族や吉原の遊女等が外出の時に使ったほか、富裕な町家では婚礼等の儀式などにこれを使った。【浅草・大嶋屋恩田】
蔵提灯 土蔵内で使うための提灯で、火が燃え移らないように,火袋は鉄枠、金網として安全策が講じてある。
奉納提灯 神社、仏閣に献納する提灯で、丸形または円筒形が多く、上下の枠は金物 または曲げ物黒塗り金具付きで、一般に大型の提灯が使用されています。【浅草・大嶋屋恩田】
盆提灯 お盆の時に、死者の冥福を祈るために供える、盆灯篭に代わって用いられた 提灯。【浅草・大嶋屋恩田】
ほうづき提灯 まん丸で、極めて小さく、赤色に染めた提灯で、形と色がほうづきに似てい るので、江戸時代初期にはすでにこの名があり、料亭等の装飾用として使われ ていました。 19世紀の後半から20世紀の初めにかけてのほうづき提灯は、赤色もしくは紅白に染め分けられたもので、提灯行列、屋外の装飾、祝賀会等に盛んに用いられました。【浅草・大嶋屋恩田】
龕橙1(がんどう) 筒状,あるいは釣鐘状のの中に回転板をを取り付け,これに反射板を付けて,差し向けた方向に集中的に光が行くように作られたもの。
龕橙2 曲物の筒内に仕込まれた二つの鉄輪が内と外、互いに直角方向に回転するように取り付けられており、内側の輪に立てられたろうそくは常に上を向く仕組みとなっている。明治期にブリキが輸入されると、木にかわって早速利用された。
短檠(たんけい) 燭台の短いもの。油をともすのが正式で,蝋燭は略式。燈台。〔檠〕 ⇒ともし火をたてる台。燭台(しょくだい)。
燭台(しょくだい) 蝋燭を立てる台。蝋燭の使用と共に室町時代頃から使われ始めた。
雪洞(ぼんぼり) 和蝋燭の炎を行灯のように和紙や布などで覆った灯火具。蝋燭を覆う火袋は,四角形、六角形、八角形、丸形などがあり、その多くは下部がすぼまる形をしていた。
脚がなく取っ手が付いた携行用のものは雪洞手燭(しゅしょく・てしょく)と呼ばれる。

蝋燭(ろうそく)

日本には仏教伝来に伴って密蝋燭が輸入された模様。天文〜永禄(1532‐70)のころになると,国産の木ろうそくも製造されたらしい。原料には櫨の実や漆の実を使って作られた。江戸時代までは蝋燭は庶民にはぜいたく品であった。
:古川和蝋燭,会津絵蝋燭,百匁(ひゃくめ)蝋燭(歌舞伎の舞台でも使用)
密蝋燭1 蜜蝋:はちみつの副産物として養蜂のミツバチの巣から主として供給され,巣房8kgから1kgの蝋が採集される。蜜蝋は可塑性に富み,乳化しやすいため,化粧品,つや出し剤,ろうそく,防水剤,膏薬,チョーク,クレヨンの製造などに使用される。【百科】
密蝋燭2 奈良朝及び平安時代の文献に現れる蝋燭は,おそらく密蝋燭で,主として中国から輸入され,しかも宮廷,寺院,貴族の邸宅など,ごく限られた範囲において用いられたものであると考えられる。【深津】
松脂蝋燭 松脂をかき集めて,こねて棒状に作り,笹の葉などで包み,これを燭台に仕掛けて灯りとしたもの。
木蝋燭1 松脂蝋燭より油煙が少なく光も明るくもちがよい。江戸時代のものは専らハゼの実が使用された。当時は高級品であった。
木蝋燭2 室町時代はウルシやヤマウルシの木蝋燭(が利用された)であろう。
江戸時代に入り,在来のウルシ蝋のほか,ハゼ蝋の採取も盛んになるにつれて,蝋燭の生産もすすみ,急速に普及を始めた。
江戸末期には,蝋燭も次第に広く普及するようになったが,それでもなお蝋燭の使用は,主として大都市において,しかも武家とか町家などの比較的富裕な家庭で,仏事,儀式,宴席,集会など多人数宇の集まる行事を催す場合とか,遊里,料亭あるいは夜間の外出用の提灯などに使用されたに過ぎなかった。【深津】
木蝋燭の芯 和紙の上にい草の灯芯をまきつけたもの(さらに,ほどけてこないように真綿で止めることも。)
和蝋燭の芯は燃え切らなくて残るので,そのままにしておくと炎の邪魔になり暗くなりました。また長くなった芯が折れて下に落ち,火災を起こす危険性もありました。このため,時々芯切りばさみで芯を取る必要がありました。【あかりの大研究】
ウルシ ウルシの原産地は中央アジアで,極めて古い時代に中国から朝鮮を経由して渡来したものと考えられている。古代のウルシの利用は塗料を主としており,蝋の採取はおそらく室町時代も後期に入ってからだと思われる。ヤマウルシは在来。【深津】
ハゼノキ1 ハゼノキも我が国へは古く渡来したものであるが,いつ頃かは不明。重要な採蝋植物として古来その栽培が奨励され,とくに福岡,大分,熊本,佐賀,宮崎,鹿児島,愛媛,和歌山,山口,鳥取,島根等の諸県は近年までその産地として知られていた。また,栽培の歴史が長くいろいろな品種が選抜植栽された。【深津】
ハゼノキ2 ハゼノキのみから採取したままの木蝋を生蝋(きろう)と称し,古来蝋燭の原料とされたのはこれであるが,生蝋を特殊な方法で漂白したものが晒蝋白蝋ともいう)で,絵蝋燭とかその他の高級蝋燭に使われ,とくに近代に入ってからは主として輸出用として晒蝋の生産が盛んに行われた。【深津】
ナンキンハゼ ナンキンハゼが我が国へ渡来したのは江戸時代であるというが,はっきりした年代はわかっていない。かつては種子から蝋や油を採るために栽培された。紅葉が美しく,現在は公園・街路樹として利用される。
ヤブニッケイ ヤブニッケイを出雲ではコガノキといい,これから採取した脂肪を「こが蝋」と称した。融点が低いため,蝋燭用としてはあまり良質ではなかったようである。【深津】
シロダモ 種子の油をろうそく用のつづ蝋や灯用「つづ油」に用いた。【百科】
タブノキ 実の脂肪を蝋燭の原料とした。【深津】
ハマビワ シロダモと近縁のハマビワの実からも蝋を採り蝋燭の原料とされたという。種子から採取した脂肪はシロダモ油に似ている。【深津】
ハクウンボク 種核を採取して蝋燭の材料とした。【深津】
ハクサンボク 種子の油を絞ってろうそくを作った。【百科】
その他 大豆から採取した大豆油や,米糠から搾った糠油も蝋燭製造用の原料に使われたが,これらの利用はいずれも明治に入ってからのことである。【深津】
松明(たいまつ) 松明はマツの脂の多い部分等を束ね(枯れた松の脂の多い部分を集め)て灯をともすもの。
ひで鉢 ひで鉢はひで(松の根の脂の多い部分で,肥松ともいう。)を燃やすための台。多くは自然石から作られ、鉄製の皿を持つものは松灯蓋(まつとうがい)と呼ばれる。
ひで鉢2 乾燥させた松の割木を石や鉄製の台に乗せて燃やし,あかりとして使用した灯火具。脂を多く含んだ松の幹や根が明るく燃えることは古くから知られており,コエマツ,アブラマツ,ヒデやシデなどと呼ばれ,あかりとして利用されてきました。山村では近年まで,東京都下でも明治の始め頃まで使用されていました。【国立科学博物館】
ひょうそく
(秉燭)
油と灯芯を使用する小さな陶製の灯火具。このうち、「たんころ」の名があるものは、小さな丸い壺の中に灯芯を立てるヘソのような突起もしくはベロのような立ち上がりがあり,油を吸い上げた灯芯の先端がそこで燃えるようになっている。大きさはぐい呑み程度のものが普通。これのみを単独で用いることもあるが、普通には行灯の明かりとして火袋に入れて使われることが多かった。【坪内富士夫】
灯台(ともしだい、とうだい) 初期の室内照明。一般には台座の上に一本の竿を立て,その上に受けを置き,ここに油皿を載せ,灯芯を浸して火を灯す。柱の長い灯台を「高灯台(たかとうだい)」と呼んで、主に部屋の灯りに使用し,柱の短いものは「切り灯台(きりとうだい)」と呼び,主に手元を照らすのに使用した。
[例]:結灯台(黒木を三本束ねて三本脚として上に土器皿をのせた初期の灯台),菊灯台(台座が菊花形のもの),牛糞灯台(台座が段状になっていて、牛の糞の形に似ていることから名付けられたもの),鼠灯台(ねずみとうだい。火皿の油量に応じて鼠を模した容器から油が滴下する仕組みとなったもの)
瓦灯(がとう)1 室町時代頃から使われたもの。床に直に置いて使う照明具として,円形の浅い瓦製の容器に土器皿を入れ,それに油を注いで火をともし,その明かりをむき出しにせず瓦製の釣鐘型の覆いをかけ,側面にあけた窓からの明かりであたりを照らすもの。
行灯より安価で,長屋などでは,今戸焼きなどの陶製の瓦灯がよく用いられた。
瓦灯(がとう)2  瓦用の土を焼いて作った灯火具。上部と内部で灯せる便利さや防火の安全性が高いことなどから,多くの人たちに愛用された。「上部で灯す」とは,上部の火皿の火をそのまま灯りにするとの意で,「中で灯す」とは、風があるときや就寝時などに,火皿の火を中に入れ方法を指す。【あかりの大研究】 
釣灯籠(つりとうろう)
吊り灯籠 
屋外の照明具の一つ。木製,金属製が一般的で,もとは寺院の照明具であったが,中世以降は神社や貴族,武家の邸宅などに広く使われるようになった。軒先などに吊される。

灯油/燈油
とぼしあぶら/ともしあぶら/とうゆ
【広辞苑】とぼしあぶら:灯火をとぼすのに用いる油。菜種油または桐油に綿実油をまぜたもの。ともしあぶら。
麻油 アサの実から採った油は「おのみの油」とも称せられ,その起源は古い。麻子油の用途としては,燈油としての利用の外,よく乾燥するため,塗料の原料となり,または石鹸の製造にも使われる。そのほか地方によっては食用にも供された。【深津】
アブラチャン @種子や樹皮の油は灯火用にされた。【山渓】
A種子の油は中部地方で灯用とした。【百科】
Bアブラチャンの樹皮から採る油は照明用にした。【名久井】
C種子には多量の油を含み燈油に利用されたほか、幹や枝葉にも精油を含み、タイマツに利用された。【深津】
注:種子油は理解するも、樹皮から油が採取できたのかは疑問がある。
イヌガヤ油1 イヌガヤ油は,炎の明るいことと,冬凍らない点で他の植物油に類をみないほど優れており,古来屋外の灯りには欠かせぬものとされていた。
種子の油は延喜式にもある閉彌油へみゆ)または閉美油である。【平井】
イヌガヤ油2 イヌガヤ油は近年まで燈油として使われていた。この油の長所は,ひどい寒中でも凍ることなく,明るい光を放つことで,従って冬の神事には欠かすことのできない燈明の資とされたものである。イヌガヤの油は全く食用にならないが,ハイイヌガヤの油は奥羽地方でこれを食した旨の記録がある。【深津】
イヌザンショウ1 かつて果実から搾った油をホソキの油と称し,灯火用に使われたことがある。【平井】
イヌザンショウ2 イヌザンショウ油,すなわち蔓椒ほそき)が大宝令(701年)賦役令中の副物(そはりつもの)の一つとしてその名を記されている。(ほかに,胡麻油,麻子油,荏油,猪油の名が見られる。)【深津】
荏油1 えあぶら荏胡麻油(えごまあぶら)。荏胡麻(えごま)の精油。荏胡麻は外来。古くから灯用に利用されてきた。鎌倉時代には燈油の首座を占め,油座を形成。近世になると菜種油が使用されるようになった。
荏油2 荏油は古くから燈油として使われたほか,乾性油の特性を利用して,塗料として合羽,雨傘,油紙等の製造にも用いられ,また漆の混和物にも使用された。食用にもされた。【深津】
荏油3 現在でも荏油は一部に製品が販売されている。自然に優しい塗料として,内装材,木製品のオイルフィニッシュ用として根強い支持がある。これに蜜蝋を混和した製品も販売されている。【2003】
エゴ油 エゴノキの油をエゴ油とかズサ油と呼び,燈油として使った。【深津】
カヤ油1 @ 種子は山村で食用となり,また燈用,頭髪用の油を搾ったことがあり,駆虫薬にも用いられた。【平井】
A 種子は胚乳に脂肪油の含有が多く,良質の食用油や整髪油がとれ,食用・薬用にもなる。【百科】
カヤ油2 イヌガヤとともに,古くから油源植物として重要なものであったが,カヤはイヌガヤと異なり,その実もしくは油を主として薬用に供し,しかも産出量が少ないため,燈油として用いられたのはごく特別な場合に限られていたようである。カヤの油は極めて良質であって,昔は大いに珍重された。【深津】
カラシナ カラシナの種子は芥子と呼び,古来,香辛料,調味料,薬用などに使われたが,種子には約37%の脂肪酸を含み,これから採った油は,日本で昔かなり使われた。【深津】
カラスザンショウ かつて種子から灯油を採ったという。
魚油 悪臭を放つのが難。いわし油の値段はナタネ油の1/3程度であった。
鯨油 江戸時代,安価な照明灯油に,もっぱら鯨油が用いられていた。【杉浦】
桐油 キリアブラ/トウユ。アブラギリ(シナアブラギリ)の種子の油。アブラギリの渡来時期は不明。かつては灯油,油紙,雨合羽,和傘などに用いられ,今日でもペイント,ワニス,印刷用インキ,リノリウム,焼付塗料等に利用される。
*シナアブラギリは明治になってから日本に移入。
クルミ油 クルミ油として文献に出てくるのは延喜式で,呉桃油,呉桃子油の名が記されている。古い時代にクルミ油を大領に生産することは極めて困難な仕事であったと考えられ,燈油として使用されて量はごくわずかであったと思われるが,冬でも全く凍らないところから,寒時屋外の燈火用としてはその昔随分と重宝されたものであることは疑いない【深津】
胡麻油1 胡麻は外来。大和本草に,「胡麻油薬には生じめを用ゆ…食と燈には炒たるを用ふ」とあり,薬用の場合には,生のまま搾る方法,つまり今の言葉でいう冷圧によっていたが,食用と燈用のものは香りに重きを置くため,香気を失わず,しかも油が著しい褐色を帯びないように種子を炒ることは,古来ゴマの製造には欠かせぬ技術であり,そのためゴマには炒荏(いりえ)の別名がある。【深津】
胡麻油2 江戸時代は、食用油としては大半がゴマ油であったという。(上方は菜種油、江戸はゴマ油好みであったという。
サザンカ油 採油用としてもかなり昔から知られていた。【深津】
シラキ1 果実から乾性油が得られ,灯用,塗料および整髪用になるが,あまり一般的でなく,又毒性があるため食用にはならない。【平井】  
シラキ2 種子には約50%の油を含み,これを搗いて搾った油がシラキ油で,燈油をはじめ塗料,頭髪油のほか,江戸時代には自鳴鐘(時計)の油として使われた。【深津】
シロダモ 種子の油をろうそく用のつづ蝋や灯用「つづ油」に用いた。【百科】
シロモジ 「日本産物志」に油を燈用とした記述がある。【深津】
ダンコウバイ油 果実を採り,種子中の油を搾り,朝鮮ではこれを東柏油と称し,頭髪油として重視されたが,我が国では古来一部の山村において燈用に供された。【深津】
椿油1 食用、頭髪用はもとより、灯用にも利用されたという。
椿油2 古来,ツバキ油は「かたし油」,「かたあし」,「あたいしのあぶら」などと称して,頭髪用を主として,次いで食用,薬用として重んぜられ,しかも極めて高価であったため。どの程度の量が燈油として使用されたかは疑問であるが,少なくとも原産地付近では,燈油としてかなり使われたことは確かである。【深津】
ナギ油 ナギは漢名を竹柏といい,春日神社の燈籠用の燈油として竹柏油が使われたといわれる。
菜種油1 水油。江戸時代には燈油の主流は菜種油が占めることとなったが,荏油の方が値段が安く,かつ関東地方の地味がエゴマの栽培に適していた関係もあり,江戸及びその周辺ではかなり使われていたらしい。【深津】  
ナタネ(この場合はアブラナ)は採油用として中国から伝来して,日本で昔から栽培されたもので,〈菜の花や月は東に日は西に〉と詠まれたのは本種の開花風景であるが,現在は栽培はセイヨウアブラナ(小学唱歌に〈菜の花畑に入り陽薄れ〉と歌われるのは本種である。)にとって代わられて,ほとんど栽培されていない。【百科】
菜種油2 [荏油から菜種油へ]:荏より菜種の方が栽培しやすく稲の裏作が可能で、搾油し易く、明るさの点でも優れていた。【中山油店】
菜種油3 油粕は乾燥すれば良質の窒素肥料。
明治以降は次第にセイヨウアブラナが作られ,昭和に入るとアブラナというと,ほとんどセイヨウアブラナに代わった。
ナンキンハゼ 江戸時代に渡来し,採蝋のあとの二番絞りのものが燈油に用いられた。【深津】
烏臼(ういきゅう)核油,梓油,子油。中国では元来その種皮の脂肪層から採った蝋を蝋燭の材料にしたものであるが,種核からも油を搾り,これを燈油に使った。種皮の脂肪層から採った油を「皮油」というのに対して,核から採った油を「梓油」もしくは「子油」と称し,乾性油で燈油としては高級の部類に属する。【深津】
ハイイヌガヤ (長野県)灯明用の油をもっぱら取ったのはハイイヌガヤの実からであった。【長澤】
ハシバミ 神功皇后の御代に摂津遠里小野の住吉神社の神事に,ハシバミの油が燈火に用いられたという伝説がある。【深津】
ベニバナ油 ベニバナは染料植物として知られているが,種子から採った油も利用価値が高く,農業全書にも「燈用に用ひ勝れて光もよく・・」とある。【深津】
綿実油 白油。江戸時代の始め頃に綿の実から採った綿実油の製造が大阪において始められ,石灰を用いて精製したものが白油の名で売りだされ,それ以降,急速に普及を遂げ,種油,荏油と並んで,燈油として重要な地位を占めるようになった。【深津】
ヤブニッケイ ヤブニッケイの種子から得られる脂肪は,融点32〜35度であるため,果期は液体状体であるが,その他の時期には凝固して,蝋のような外観を呈する。【深津】
以前は実から油を搾り灯火用にし,これからコガという蝋を作った。
その他 その他,ヘチマ,カラスウリ,キカラスウリの種子からも燈油を搾ったといわれ,またアカメガシワの種子の油も燈油に使ったとされる。さらに,東北地方でアケビやミツバアケビの種子油を食用や燈油の用に供するところがあったといわれる。【深津】
<参考>

食用油
奈良時代及びそれ以前 奈良時代以前の油(胡麻油,麻子油,荏油,曼椒油など)は食用としてよりも灯明用として使われていた。食用油として胡麻油が使われ始めたのは奈良時代に入ってからである。僧侶に広まった精進の食生活に伴う脂肪の摂取不足を補うために油を使った料理が発達した。【浅川具美】
鎌倉時代 禅宗が伝えられるとともに,精進料理が発達して一般社会にも普及。胡麻や榧などの油で揚げ物。【浅川】
室町時代 禅宗風の精進料理が広く一般の庶民の間にも普及し,油商人の活動もあり,食用油が広く庶民階級にまで普及した。【浅川】
安土桃山時代 南蛮貿易が盛んになり,それに伴って南蛮料理や南蛮菓子などが伝来した。天ぷら,がんもどき,カステラ,ビスケットなど。胡麻油や豚の脂の記録あり。【浅川】
江戸時代 江戸後期になると,多量の食用油が市場に出回るようになり,金属製の鍋が普及した事実と相まって,庶民の食生活でも,揚げ物(特に空揚げ,衣揚げの天ぷら)や炒め物を賞味できる時代を迎えた。【石川寛子】
発火 火打ち石・燧石 袋の中にある石(燧石ひうちいし,石英の一種)を出し,口にある鉄(燧金ひうちがね,燧鉄,火打金)を打ち付けて火を出し,他のものへ移す。この方法を燧という。燐寸は江戸時代末期になって輸入され,明治になって民間に広く普及した。
火打ち石2 火打石は玉随や瑪瑙石が適していて日本各地に産出します。石英や珪石を使用する場合もありますが、火の出はよくありません。【牧内 和正】 
「火打ち石」は、水晶(石英)やチャート・メノウなどの珪酸(SiO2)質の石【富山市科学文化センター】
火打ち石3 火打ち石には主に石英の一種である燧石(すいせき)を用いたが、メノウ、水晶なども使用した。【日本民俗大辞典】
発火箱・燧箱 家庭では石と金属と付け木などを入れた箱が所帯道具のひとつとしてどの家にも置かれていた。
火打箱/火口箱(ほくちばこ) 火付け道具(火打石,火打鉄,火口(ほくち),附木)を収めた箱。火打石は石英などの硬い石で,火打鉄(木に鉄を埋め込んだもの)と打ち合わせて火花を起こす。火花は火口(イチビの茎を炭化させたものや、蒲(ガマ)の花で作ったものがある)に移され,さらに附木(スギやヒノキの薄片に硫黄が塗ってある)へ移されて火となる。
火打金・火打鎌1 甲冑鍛冶の名匠として世に聞こえた京都明珍(ミョウチン)の火打金は名高く,享保の頃には「本家明珍」の銘が木部に記されていた。江戸末期には上州吉井家の火打金が優良品として知られ,「吉井本家請合」の銘が焼印されていた。【宮本】
京・大坂では火打金(ひうちがね)、江戸では火打鎌(ヒウチガマ)と呼んだ。
火打金・火打鎌2 火打,火口を商うものは,江戸では升屋(芝神明前),京都では吉久大阪では明珍の三社の独占になっていた(享保20年制定された「香具師免許状」による)という。ほぼ天保改革の前後から,上州の吉井火打鎌が江戸の市場に進出し,衰運の本升屋を駆逐し,その後も幕末から明治にかけて,吉井製品が江戸の市場を独占した。
【花咲】

注:上記1,2の資料では、明珍の大阪、京都での位置づけの構図が理解しにくい。
火打金・火打鎌3 現在の群馬県吉井町、旧吉井宿は江戸時代には特産品として火打金が有名で、中でも特に中野屋製の火打金は火花が良く出ると好評を博し、江戸を中心に全国に流通していました。中野屋製はブランド品の証として、カスガイ形の鋼の部分に「上州吉井中野屋孫三郎」「上州吉井中野屋女作一」などの鏨銘を施したり、木柄の部分に「吉井本家請負」などの焼印をする特徴があります。【群馬県吉井町】
火打金・火打鎌4 都内で、伊勢公一商店が現在も「吉井本家請合」の焼き印のある火打ち鎌を製造販売している。初代が商標権と販売権を得て明治4年に製造を始めたのがきっかけで、現在4代目という。【http://www.d3.dion.ne.jp/~makiuchi/index.htm】 店舗を持たないため通販扱いとなっているが、東京江戸博物館でセット物を販売している。【2003】
火打金・火打鎌5 小型の平たい三角形の火打ち金は携帯用で、家庭用にはカスガイ型の鋼を四角い木片に埋め込んだものを用いた。【日本民俗大辞典】

ほくち
火口。燧(ひうち)で打ち出した火をうつし取るもの。イチビの殻幹を焼き、または茅花(ツバナ)やパンヤに焼酎・焔硝を加え煮て製する。【広辞苑】
もみ錐式の場合 土地により必ずしも一様でないが,多くは乾燥した木くずや,竹くず,ヒノキ,スギなどの歯,枯木のボロボロになったものなどがよく使われた。伊勢神宮(舞錐型)では,ヒノキの木くずの上に,よく乾かしたスギの葉を粉にしたものを振りかけてほくちとしている。もみ錐式発火法ではほくちはそれほど重要視されていなかった。【深津】
ホクチタケ サルノコシカケ科のシロカイメンタケ。古来ホクチタケと呼ばれてきた。【深津】
ヨモギ ヨモギはほくちの原料として重要なものであった。葉裏の綿毛を使用。
ヤマボクチ類 オヤマボクチ,ハバヤマボクチ,キクバヤマボクチ及びその変種のヤマボクチなども,ヨモギ同様,葉の裏の白い綿毛をとって,これをほくちに使ったところからその名がある。【深津】
ホクチアザミ ホクチアザミも同様に葉裏の綿毛をほくちに使った。
消炭 サクラ,キリ,ヤナギ,ハンノキの仲間などの消炭の粉は,ほくちとして使われた。
イチビやアサの繊維をとった殻,モロコシの殻,ガマの茎などを焼いて作った消炭の粉もほくちとして使用された。
チガヤ等 チガヤ,ガマ,ガガイモなどの穂や綿。近世,携帯用や日用品として耐える商品としては,ススキとかチガヤの枯穂や,ガガイモの種子に生ずる絹毛状の毛,それにガマの穂(ほわた)に焔硝(えんしょう=硝石)や焼酎を加え,煮て製し,これを赤や墨色に染めたものが作られた。【深津】
ガマ穂 ガマの穂から作ったほくちは,火つきが良いため,旅行用には好んで使われ,そのため旅火口(たびほくち)の名があった。ことに大阪がその本場であり,江戸では,多くは火口木といって,イチビやモロコシなどの草幹を焼いた炭を使い,ガマ製の火つきの良いものを,特に熊野火口を呼んで稀にしかつかわなかったという。【深津】

付け木(つけぎ)
・ 杉などのごく薄い板の先に硫黄を付けたもので,火打で出た火花をこれに移し,火の元にした。
・ 同じ役割をしたものに火口(ホクチ,ホグチ)がある。これはいちびという植物の茎を炭化させたもの。 
(発火方法) 普通左手に燧石を持ち,その面の上に一つまみの火口をのせ,これを親指で押さえ,右手に持った燧金(火打鎌)で強く石の角を擦りながら,火口に火をつける「擦火」の方法で火をおこした。【岩井】
きりび(切り火・鑽り火) 旅行の出立の時などに、清めのために打ちかける火。【広辞苑】
縁起をかつぐ花柳界,芸能界などでは家を出る際に〈きりび〉といって火打石による浄火を打ちかける風習も行われている。【百科】
切り火 切り火は厄払いや邪気を祓う日本古来の風習です。利き手に石を持ち一方の手に火打金を持ちます。石の鋭い角で火打金の縁を削り取るように勢いよく前方に向かって打ち付けます。この火花を清めたい場所や出かける人の右肩口に後ろから二三回切り掛けるのが作法です。【吉井・製品チラシ】
炭入れ 炭を入れておくためのものの総称。
火消壺(ひけしつぼ) 炭火や薪の燃えかすを消すためのもの。火の用心と火種用。鋳物製や素焼きのものがあった。
火消籠(ひけしかご) 籠の上に紙を張り重ね、柿渋や桐油をぬった、いわば消火用のバケツ。【前川】
火もらい桶 火種もらい用。
埋火 うずみび(埋み火),いけび,いけた火:灰に埋めた炭火。
囲炉裏 囲炉裏(いろり) 江戸時代の農村部ではこの暖房が定着した。もともと「居る」という語に囲炉裏の字を当てたもので,家の中心の居場所を示した言葉である。囲炉裏の火は、夜は室内の明かりにもなった。
火棚(ひだな) 材木や竹などを格子に組んだものを炉の上方に吊ったもの。火除けであると同時に濡れた衣類を乾かしたり,食物などの乾燥場所でもある。【小泉】
弁慶(べんけい) 囲炉裏の上に吊しておき,魚を乾燥させるために,串刺しにして弁慶にその串を刺す。
自在鉤(じざいかぎ) 囲炉裏に鍋や湯沸かしなどをしかけるための道具で,(横木を持ち上げて平らにすることで)鉤の高さを自由に調節できるようになっている。
自在鉤の構成:[棒上下式の場合]鞘(枠)−つり縄−横木(小猿)−鉤(棒)
他に,筒棒型,鋸歯型等いろいろの形式がある。
魚形の横木はとくに〈北向き鮒〉とか〈入り鯛〉と称し,俗に〈出鉤入り魚〉というように先端のかぎは家の入口に,魚の頭は逆に家の奥に向けるものとされた。【百科】
かまど
(へっつい)
(かまど)
(くど)
・ 竈(かまど)のこと。大阪や京都では火を燃す部分を土間の方に向け,へっついの背を板の間の方に据える。江戸では焚き口を板の間の方に置き,背を土間の方に置くという。農村では焚き口は広い方に向いている。古い形式の竈には,適当な位置に塩壺を納める穴が設けられていた。地域により「くど(竈)」、「おくど」とも。
・ 竈の口を痛めないように,鉄製の丸い金具の「金輪(かなわ)」を用いた、
・ 火伏せの神である秋葉(あきは/ば)神社や愛宕神社のお札を貼って火の用心に努めた。
竈の煙突 日本の竈は東西ともに長い間,煙突が未発達だった。竈に煙道とそれに連なる煙突をつけるようになるのは,昭和になって,竈の改造が盛んに行われるようになってからである。【岩井】
火吹竹 竈特有の付属物で,竹を節一つ残して切り,節に小穴をあけたもの。吹き口を口に当てて,息が漏れないように手で支えて吹き,火の調節をした。
渋団扇(しぶうちわ) 丸亀団扇  奈良団扇の下のもの,つまり渋団扇にならって作られたのが,讃岐の丸亀団扇である。寛永10年(1633)年に,金比羅参詣客に丸に金の字の印を入れた渋団扇を土産として売り出したのが,丸亀団扇の始めといわれている。のちに竹骨と和紙の間に漁網を入れる工夫がなされてより強靱になり,それが丸亀団扇の特色ともなった。【岩井】
 かまどや七輪の火をこれであおる。火吹竹よりも多くの風を送ることができ、強い火をおこすことができる。
十能(じゅうのう) 竈に焚きつけた薪や藁の燃えかすや灰を掻き出す。形状は小さな角スコップ状。
炭火を盛って運ぶ道具。金属製で、木の柄がついている。火掻き。【広辞苑】

七厘・七輪
炭火焼きのための料理用コンロ。現在でも趣味的に利用される。
火吹き竹,渋団扇を使用。明治の末頃から炭とともに普及した。愛知三河の粘土製は角形の代表格。昭和始めに工業用のろくろが開発され,円筒形が主流になる。戦後は能登七尾の珪藻土製が広まった。
わずか価七厘の炭で飯が炊けると言うところから「七厘」の名が付いたとも言われる。
大火の多かった江戸では瓦生産が発達し,その副業として瓦器(がき:素焼きの土器)類が量産され,元禄の頃には瓦器売りが商売として成立するほどであった。隅田川岸の今戸で焼かれたものがよくで回ったので,それらの瓦器を「今戸焼」と呼んだ。【岩井】
採暖 火鉢(ひばち) 奈良時代から平安時代にかけての宮廷や貴族の邸宅では,火桶,火櫃(ひびつ),炭桶,炭櫃と呼ばれる移動可能な暖房器具が使われていた。これが今の火鉢となった。杉,欅,桐の丸太の刳物,指物,金属製,陶製,土製など様々な火鉢が使われた。
手焙り(てあぶり) 手をあぶるのに使う小形の火鉢。手炉(しゅろ)。
炬燵・火燵(こたつ)  最初に使ったのは室町時代の禅宗寺院であったといわれる。炬燵が一般家庭で使われるようになったのは,木綿の蒲団が庶民の寝具として用いられる江戸時代中期以降のことであった。
櫓炬燵(炉の上),置炬燵(移動可能),掘炬燵
ストーブ ・日本で最初に作られたストーブは,江戸時代に蝦夷の函館奉行が,函館港に入港していたイギリス船のストーブをまねて,職人に作らせた鋳物製のものであった。一般家庭に普及するのは大正時代の中頃。
・簡単に薄鉄板から作られる薪ストーブは,明治時代の中頃から山村で使い始められたが,都市ではもっと小型で軽量のルンペン(ドイツ語でぼろ切れ)ストーブが普及した。これは,石炭,薪,紙,おがくず,籾殻など何でも燃やせた。
・石炭ストーブの代表は達磨ストーブ。
湯たんぽ 陶製,金属製。時代が下って樹脂製が仲間入り。
行火・あんか 素焼きや石製がある。一般の家庭では火鉢よりあんかを多く使用。手足を温めるのに用いた小型暖房器。辻番が愛用したことから「つじばん」の名も。
蚊遣り
蚊帳
蚊遣り1 蚊いぶし,蚊くすべ,蚊やり火,蚊火(かび)などとも呼ばれ,一般に木片をいろりや火桶でたいたり,ヨモギなどをいぶして,大型のうちわであおいだりした。江戸時代には,おがくずに硫黄の粉をまぜたものも使われた。明治になると除虫菊を粉末にして蚊やり粉が作られた。その後蚊取線香の普及に伴って蚊やりの光景もみられなくなった。【百科】
蚊遣り2 カヤの材を焼けば蚊を遣るに効あり,カヤの名はカヤリノキより転訛。【効用】
蚊遣り3 蚊遣りには大量の木くずを燃やす。使われた木等は,杉,松,榧,麻,蓬(よもぎ),樟,橘の皮などであった。町ではおがくずをくすぶらせたという。
蚊遣り4 @木の屑、スギ、マツ、クスノキ等の青葉やヨモギの葉を焚いた。ビャクシンが蚊遣とされた記述あり【木材の工芸的利用】。蚊遣りのために炊く木を蚊遣り木という。
A蚊遣火として、カヤ・スギ・マツなどの蚊遣り木、タチバナ(柑橘類)の皮・麻・ヨモギ・ツバキの落花・オガクズなどをいぶした。カヤ(榧)という樹名は蚊遣りが語源だという説がある。
蚊取り線香 大日本除虫菊株式会社(金鳥)の歴史によれば棒状蚊取り線香の発売は明治23年、渦巻き型蚊取り線香の発売は明治35年としている。近年、除虫菊成分は合成殺虫成分に完全に置き換わったが、健康・エコロジーの観点から、天然除虫菊成分を使用した製品が復活している。【2003】
蚊帳(かや) 蚊帳は古くから貴族社会で使用されていたが,江戸時代になると蚊帳の生地が絹から麻になり,越前の麻を近江八幡に運び,この地の西川家が大規模な蚊帳問屋を始めて,全国に売り歩いた。麻の蚊帳は庶民には高価であったため木綿や紙の蚊帳も使用された。蚊帳を買えない階層では蚊遣りを炊いて蚊を追い出した。
箱物 挟筥・挟箱(はさみばこ) 武士が登城の折りに下僕に持たせたもの。担ぎ棒付きの箱。
長持1(ながもち) 江戸時代に木綿綿の入った大型の蒲団が普及してから,それを収納しておくためのものとして広く使われるようになった。一般に両端に棹を差し込む金具が付いている。これは,花嫁道中の運搬に便利なように工夫したものである。
長持2 衣類や道具などを入れる大型長方形の櫃(ひつ)。蓋がつき,両短側面には棹通しの金具をつけて棹を通し,前後2人で担ぐ,収納具であると同時に運搬具である。また普通の長持よりも大型で,車をつけた車長持もある。車長持は非常持出しに便利であったが,明暦の江戸大火(1657)の際,持ち出された車長持が避難路をふさいで大惨事となり,以後三都では禁止された。
長持3 長持が多く使われたのは江戸時代から明治・大正にかけてである。嫁入り道具として衣類や布団などを入れて運び,そのまま収納家具として使われたのがおもな用途であり,嫁入りの際,長持を担ぐ人たちによって歌われたのが長持唄である。
箪笥(たんす) 例:箪笥,文書箪笥,船箪笥,車箪笥,薬箪笥
箪笥という語は中国語の箪笥(たんし)に由来し,箪は円形の,笥は方形の,ともに食物や衣類を入れる容器を意味した。箪笥は江戸時代の16世紀末ころに出現し,17世紀前期の正徳期(1711‐16)あたりから次第に一般に普及しはじめた。箪笥が本当に発展するのは明治中期から大正時代にかけてであり,質,量ともに最盛期を迎える。
蓋のある大型の箱。櫃は中国語の櫃子からきている。脚付きの唐(韓)櫃と脚の付かない和(倭)櫃(やまとびつ)とがある。櫃は古墳時代ころから使われていたと考えられるが,中世あたりまでは多く唐櫃が使われていた。
水屋・茶箪笥 西日本では水屋,東日本では茶箪笥と呼ぶ。食器や食べ物を入れておく。水屋はもともと茶道で茶器を洗ったり収納したりするために茶室の隅に設けられた場所のこと。茶箪笥は小型の携帯用の茶道具入れをいったが,今では両方とも食器をしまっておく家具の名前となった。一般に普及したのは明治松から大正時代になってからのこと。
蠅帳(はいちょう)1 食物を入れる台所用具の一。蠅などが入るのをふせぎ、また通風をよくするため、紗や金網を張った戸棚。はえちょう。明治から昭和の中期まで,台所の食卓にはなくてはならない物であった。
蠅帳2 蠅帳は棚にひごなどの戸をつけて風通しをよくしたもので,食器や食べ残しを入れた。
茶弁当 携帯用の茶の風炉(ふろ=茶道で釜を掛けて湯を沸かす炉)。ごく簡単なものは手提げ色の箱の底に炉をセットし、上に茶や酒を沸かすための銅壺などのついたものである。凝ったものではその箱にいくつかの弁当箱を納める仕組みになったものや、盃、鉢、皿などをコンパクトに収める仕組みのものもある。【岩井】
茶弁当2 当初は大名道具であったが、江戸も時代が下ると民具に仲間入りし始め、花見にはつきものとなった。【前川】
脚物 ちゃぶ台/卓袱台チャブ台   明治時代になって,中国風・西洋風の料理が次第に広まるのと併行して,それまで個人個人で食器・膳を用いていたのが,まず都市の一般家庭から共有共用の食卓としてのちゃぶ台と呼ぶ食卓が現れ,次第に農村に及んだ。
 ちゃぶ台はもともとシッポク台と呼び,江戸時代末期に長崎の料理屋の食卓として用いられていた。シッポクは卓袱で,もともと中国で食卓にかける被いのこと。シッポク台ははじめ中国風の腰掛け敷きであったが,次第に日本家屋に合わせた座式の円形食卓となり,ちゃぶ台と呼ばれるようになった。そして,明治の中頃から,四本の脚を折り畳んで収納スペースを少なくする形式のものが考案され,それがちゃぶ台の一般的な形式となった。
 座卓の一種である飯台は,甲面が一畳のものが一般的で,ふつう台所の板の間で使用したのに対し,畳の間でも使用したのがチャブ台。のちに伝わるチャブ台は,円形の甲面で足を折り畳み式にしたもの。これは,明治24年(1891)に大分県の後藤友六が「卓子(折足)」という新案特許を出願・登録したものである。(当初は高さ40センチの洋風ティーテーブル:山口昌伴)チャブ台なる呼称は,中国系の「卓袱(シッポク,又はシッポコ)」を語源とするという説が強い。【神崎】
 「ちゃぶ台返し」という郷愁を感じるような語がある。頑固親父がいた時代のもので、食事中のちゃぶ台を怒ってひっくり返す行為をさすが、現在、これができる親父は存在しない。 
縁台・床几(えんだい・しょうぎ) 関東地方では縁台,関西地方では床几ということが多い。武士が戦や狩のときに使う折り畳み式の一人掛けの腰掛けも床几と呼ぶ。今も神社の拝殿などで使われている。
まくら 陶枕 陶枕は中国から入り,近世,夏の昼寝用として使われた。【百科】
香(炉)枕 髪に香をたきこめるための枕。源氏香形の透しのある木枕で引出しを付け,中に香炉を納める。【百科】
括枕(くくりまくら) @髪を結わない坊主頭の者に便利であるということで,坊主枕とも呼ばれた。
A近世に入ると俵形に作り,両側に房をつけたいわゆる括(くくり)枕となった。側を錦やビロード,木綿などで作り,中にそばがらなどを詰めたが,これは現在でも使われている。【百科】
箱枕 @最も簡単な木製の箱形。布張箱枕もある。
A木製の箱の上に小さな括枕(小枕)をのせたものである。江戸時代に男女とも髷(まげ)を結うようになったため工夫された枕。【百科】
小枕の上には髪油のよごれをとる紙を添えた。
安土枕 箱枕の上に小さい括枕をつけたもの。
船底枕 安土枕の底を船底のように丸くして,寝たまま枕の位置を動かしたり,寝返りを打ったりしやすいように工夫したもの。
木枕 中世までは木枕が多く使われていた。素材は沈(じん),黄楊(つげ),朴(ほお),桑,杉などで,角材や丸太を切っただけの素朴なものから,頭をのせる部分をくぼませたり,外側を錦で包んだり,蒔絵(まきえ)を施したりしたものまである。また1本の長い丸太に何人もの人が並んで寝る枕もあり,中世まではよく寺社の参籠用に使われた。近世にも火消連中,雇人用などに用いられたが,一端をたたくと皆がいっせいに飛び起きたという。【百科】
 北海道の博物館「網走監獄」には、囚人労働に依存した道路開設に際しての元祖「タコ部屋」の再現施設もあって、ここも長い丸太の枕であった。
籐枕 籐枕は頭をのせる中心部を片木(へぎ)で下地を作った上に,籐蔓を編んで巻き,両側は板をつけたものである。両端が反り上がった長方形で,立の部分は赤漆塗。側板は黒漆塗で,よくこの一方に悪夢を食うという獏(ばく)を,一方に菊や鶴,南天(難を転ずる)を描いた。【百科】
旅枕 木製の折りたたみ式が主。クジラの髭製も多かった。【前川】
文房具 紙,筆,墨,硯を文房四宝といった。
一般人が使ったものは奈良(熊野)や安芸国(広島)の筆であった。
@国産で最も一般人が使ったのは奈良の墨。高級品は中国からの輸入品。
A松や植物油などを燃やして得た煤(すす)と膠(にかわ)を主な材料とし,これに香料や若干の薬剤を加えて練り固めた文房具。材料によって松煙墨,油煙墨,工業煙墨に大別される。【百科】
机は古くは部屋の床に直には置けない品をのせる台だったが,江戸時代には,本を読んだり文字を習うのに使った。文机(ふづくえ・ふみづくえ)。
見台(けんだい) 書物を読む台。中央に一本か両側に二本の足があり,それに板が付いていて,通常は書物を読む台だが,義太夫などでは語る人がもっぱらこれを使う。
矢立(やたて) 筆記用具の一種。硯(すずり)と筆を一つの容器におさめたもので,同時に硯の水がこぼれぬようパンヤ,もぐさなどに墨水をしみこませたのが特色である。形は最初は檜扇(ひおうぎ)の形をとったものであった。のち江戸時代となって墨壺が丸く大きくなり,腰にさして歩くのに便利となった。【百科】
食具 蕎麦猪口(そばちょく) 作られ出したのは元禄頃といわれ,初期のものほど口から底までが真っ直ぐ。時代が下ると口が開いてくる。
湯桶(ゆとう) 湯を入れるのに用いる木製の器。桶(おけ)の形をして、注ぎ口と柄があり、普通は漆塗り。そば屋などで、そば湯を入れて供するのに用いる。ゆつぎ。

わん

 石製や陶磁製のものは「碗」,金属製のものは「金偏のわん」,木製のものは「椀」を文字の上でも使い分けられてきた。近世以来,日常的に最もよく用いられてきたのが,木製と陶磁製のもの。
 木製椀はもともと木地屋が轆轤で挽いた素地のものであった。器物に漆を塗ることは既に縄文時代からあり,中世以来各地に漆器産地ができた。近世になって冠婚葬祭用の食器として,飯椀,汁椀,平椀,壺椀が膳と組み合わせて生産されるようになって,漆器の椀が急速に民間に広まった。
 陶磁製の碗も近世にはいると量産されて,近世末期から明治時代にかけて,全国的に普及した。特に鉄道輸送の発達が陶磁器を大きく普及させた。佐賀県有田や愛知県瀬戸の陶磁器類は各地に運ばれ,西日本では「有田物」,東日本では「瀬戸物」と呼ばれて,日常の食器として定着した。
茶碗・飯茶碗  飯を盛る器。名称は,陶磁器の碗はもともと喫茶のための器であったからで,茶道の懐石料理の作法や小笠原礼法が民間に簡略化して浸透したからであった。そして,茶碗の意味が拡大され陶磁器一般を指すようになり,召しようと喫茶用を区別するために「飯茶碗」,「湯呑茶碗」の呼び方が生まれた。
 こうして陶磁製の碗が普及すると,飯には陶磁器碗,汁には木製のり塗椀という形式が作られていった。

膳(ぜん)
食器を載せる台を古くは盤(ばん)といった。折敷や三方は日常の食膳として用いたが,やがて刳物や箱物(指物)の膳が現れ,日常生活に重宝されるに及んで,これらはハレの膳,すなわち神饌を供する御膳となった。
折敷1(おしき) 最も古い膳で,方形の板の上の縁に側板を取り付けたもの。直接床の上に置いた。(盆風)
折敷2 檜の薄板を方形に曲げて側板とし、それに底をつけた浅い盆形の容器。本来は食膳であったが神事における神饌(シンセン)を盛ることはもちろん、しろいろな献物を載せるのにも用いられた。【岩井】
衝重(ついがさね) 食事をしやすいように折敷の下に台を付けたもの。
神前に据えるときは、上の折敷は側板の綴り目のない方を神前に向け、台は孔のない方を神前に向ける。(従って台の側板の綴り目のある方が神前に向くことになる。本来は折敷と台は離れているもの。【岩井】
三方(さんぼう) 衝重のうち台の三方に宝珠の形の穴があけられたもの。
四方(しほう) 衝重のうち四方に宝珠の形の穴があけられたもの。
両足膳 左右に足。切立膳。
四足膳 脚が接地面で広がった蝶足膳,脚の下部が内側に向いて丸くふくらみ猫の足の形に似た猫足膳等がある。
平膳 折敷に縁を付けることで平膳が作られた。
懸盤(かけばん) 折敷の下に大きく格挾間(こうざま)を透かした台を付け,塗,蒔絵,螺鈿をほどこした膳で,桃山時代から格式ある膳として用いられた。(足が接地面で接続したタイプ。)
箱膳 日常個人専用の膳で,中に個人の食器を納めておき,食事のときは上の蓋を裏返しにし手,それを膳に使う。引き出し付きのタイプもあり。箱膳を納めた棚が膳棚。ちゃぶ台の登場で生活の場から消えた。デパートの漆器コーナーでしばしば見かけるが,趣味の世界の製品としてわずかに生き残っているもの。
面桶(めんつう) メンツウ,メンパ,ワッパなどとも呼ばれる檜等の曲げ物。
弁当行李(こうり) メシコウリなどと呼ばれる竹,柳の行李。
重箱 行楽用には提重(さげじゅう)あるいは提重箱という,手に提げるための鐶(かん)や,置くのに便利な台を付けたものもある。
酒器 指樽(さしだる) 柳樽や角樽がはやるまでには指樽が祝いの品(進物)として必要だった。箱形。両側に縄紐がついていて,肩に掛けるようになっている。多くは朱又は黒漆塗りで蒔絵の家紋入りなど美しいものが多い。指樽は、指物で作られているので指樽という。
角樽(つのだる) 祝いの酒を入れる樽。江戸の酒屋では貸したり売ったりした。
結婚の固めの酒を贈ることを「樽入れ」というが,嫁をもらうときは朱塗りの角樽,婿をもらうときは黒塗りの角樽を用いるのが一般的であった。
柳樽(やなぎだる) 祝いの酒を入れる樽。角樽以前。樽を作る技術が未熟だった頃,杉板では隙間から酒が漏れるので,柳の木にしたところ,水分でふやけて隙間がふさがり,柳樽が生まれた。杉樽になっても柳樽の名は残り,結納の目録に「家内喜多留(やなぎたる)一対」などと記す風習が伝わった。そのため,柳樽は角樽(つのだる)または柄樽(えだる)の類を指し,祝い事に用いる。
兎樽(うさぎたる) 胴が丸くふくらんだもので,漆塗りが一般的であった。
酒徳利(さかどくり)等 瓶子 へいし。丸くふくらんだ胴に細くくびれた口をつけた壺で,いまでも素焼きのものが神社などで用いられている。後世の徳利に当たる。【百科】
家庭の神棚の祭器具としても使用されている。
徳利と銚子 徳利と銚子とはもともと別物であった。
徳利 酒を入れて杯に注ぐための瓶形で,くびがすぼまった容器。徳利は,瓶子の形状をほぼそのまま受け継いだもので,室町時代からその名が見えてくる。【百科】
銚子 @酒を盃に注ぎうつすのに用いる器で、柄を長くしたもの。木製または金属製で、近世では多く婚礼用。両口・片口の二種がある。さしなべ。A徳利に同じ。【広辞苑】
貧乏徳利 酒屋が小売り用に貸し出した徳利(陶磁器)のことを,俗に貧乏徳利という。これは,ガラス瓶が普及する以前の酒の運搬容器で,酒屋が後で回収したため,貸徳利,通い徳利とも呼ばれる。【神崎】
銚釐 ちろり。燗徳利を簡便にして注ぎ口と把手をつけた金属製(銅・真鍮または錫製)の酒器。
燗鍋 かんなべ。酒の燗をするのに用いる鍋。多くは銅製で、つると注ぎ口と蓋とを有する。【広辞苑】
銚子を簡略化したもの。
燗徳利 湯につける燗徳利と直火の燗徳利がある。
酒筒(さかづつ) 携帯用の酒入れ。
瓢(ひさご) 瓢,ひさごとは瓢箪のことであるが,江戸時代の酒飲みは風流を愛したので,酒を持ち歩く瓢箪のことを瓢(ひさご)といった。
勝手場 笊(ざる)  笊は籠と同じように竹を編んだものだが,籠の目が一般に大きいのに対して,笊は笊編みという目の詰まった編み方で作られる。
例:水切笊,茹上笊(ゆであげ),米洗笊,味噌漉笊,茶漉笊などがある。
瓶(かめ)/甕  焼き物で,口が広く胴から底にかけて次第にすぼまった形をしているため,大量にあるいは頻繁に出し入れするものの容器とされる。最もよく使ったのが飲料水を貯蔵しておく水瓶で,味噌,醤油の醸造にも使われた。
水甕 水甕はその家の水の使用量に合わせて大きさが決まるが,だいたい五斗入り,三斗入りであった。陶磁器が用いられたのは,水漏れがなく,また水の変質も少ないからである。
柄杓(ひしゃく)1 もともと瓢(ひさご)を二つに割って作ったものだったので,ヒサゴの名から転訛してヒシャクと呼ばれるようになった。曲物ヒシャクが多く用いられたが,竹の産地では青竹を切って作った柄杓も用いられた。水道の発達から使用が減った。手水(チョウズ)用には必需品。墓参りの共用品は,以前からアルミが主流。
柄杓(ひしゃく)2 (ヒサゴ(瓠・匏・瓢)の転。のち、シャクは「杓」の音から出たもののように誤られた)@湯・水などを汲みとる具。竹・木・金属などでつくり柄をつけたもの。しゃく。ひさく。A茶道で,茶釜から湯を汲みとるのに用いる具。【広辞苑】
壺(つぼ)  壺はその形を表してできた象形文字である。口が小さくて機密性が高いので,長期間の保存に適していて,塩壺,砂糖壺,油壺,茶壺,種子壺など,いろいろの容器とされている。
桶(おけ)  オケという言葉はもともと麻糸を入れておく苧笥(おけ)からきていて,苧笥は杉や檜の薄板を円形に曲げて桜の皮で綴じ,底板をはめ込んだ曲げ物であった。しかし,曲げ物ではあまり思いものを入れられなかったので,鎌倉時代の末になって,幅の狭い短冊形の板を円形に並べて周りを竹のタガで締め,底板を付けた結物(ゆいもの)の桶が作られるようになった。
@種類例:大桶,小桶,手桶(二本角に持ち手),片手桶,洗桶,曲物桶,岡持,担桶(縄付き),髪洗い桶(足付き),半切桶(平たいタイプ),塗桶
A用途による種類:水桶,若水桶,鮨桶,米かし桶,香の物桶,糠味噌桶,砂糖桶など
手桶 水を運ぶための提げ手のついた木製の桶。水道が普及してからも手桶は長く使われたが,やがてブリキ製のバケツになり,昭和40年代からプラスチック製バケツが主流となってきた。墓参り用品としては形は継承されている。
さるぼう 少量の水を汲み上げるときは,柄杓を使ったが,多量の水のばあいはこれを用いる。タガで結ったクレの中の1枚を倍くらいの長さにして握り手にしたもの。今もこの形は受け継がれており,風呂の手桶も材質はプラスチックとなっているが同形である。
包丁 本来は《荘子》に見える古代中国の名料理人の名で,転じて料理する人をいった。日本では〈料理すること〉をもいうようになり,料理する人を包丁人,包丁者,料理に使う刀を包丁刀と呼ぶ風を生じ,さらに包丁刀を略して包丁というようになった。【百科】
俎板(まないた) 料理の材料を切るときに用いる板。《和名抄》は〈俎〉を,音は〈阻(ソ)〉,和名は〈末奈以太(まないた)〉としている。のちに〈真魚板〉〈魚板〉とも書くようになった。日本では古く魚菜のすべてを〈な〉と呼び,さらに魚だけを〈まな〉と呼んだ。その〈まな〉を切り分けるための板であるところからこの名がある。昔は脚付き,それも4本脚のものが多く使われた。【百科】
俎は,古くは蒲鉾状に緩やかなふくらみを持っていた。また,脚が付いたものだったが,いつのころからか,ふくらみも,脚もなくなっていった。その結果,両面が使える一枚板のものが出回りだした。
俎板は一枚,二枚と数えないで,一膳,二膳と数える。
鰹節削り 鰹節は江戸では「かつぶし」,「おかか」,上方では「けずりぶし」,「ふし」と呼んだ。現在のような堅いものは室町時代末期に登場した。台鉋の考案に伴い現在のタイプとなった。
擂鉢・摺(擂)子木
(すりばち・すりこぎ)
擂鉢はすでに縄文時代からあった縄文土器の片口の内側に擂目を付けたものから発達し,平安時代から貴族の家で多く使われるようになった。鎌倉時代に中国から禅宗が入ってくると,禅宗の精進料理に胡麻や大豆をすって蛋白質を摂取する方法がとられ,そこから一般庶民にも使われるようになった。
全国各地の窯場で擂鉢が焼かれてきたが,広く商品化したのが瀬戸焼(愛知県),信楽焼(滋賀県),備前焼(岡山県),石見焼(島根県)などの硬質陶器に限られる。【神崎】
現在,すり鉢は栃木県の益子,滋賀県の信楽,瀬戸の赤津,丹波の立杭,島根県の石見,九州の小石原などで焼かれている。【1980代 小泉】
鍋・釜  鉄鍋の出現は平安時代からで,鎌倉時代になると一般にも広まった。鉄釜も平安時代からで,金瓮(かなえ)と呼ばれた。近世においては釜が主役を占めるようになるが,それは米食の調理法の変化によるものであった。
【例】:内耳鍋,鉄鍋,煎鍋,焙烙(ほうろく),羽釜(はがま)
羽釜(はがま) ・ はがま。江戸時代末期から都市を中心にしだいに羽釜が広まった。羽釜の羽は,薪などを燃料とする場合,熱効率を高め,煤煙を減少させるのに効果があった。【百科】
・ 羽釜でご飯をおいしく炊く言い伝えとして「@始めちょろちょろ A中ぱっぱ Bぐつぐついったら火を引いて C赤子(あかご)泣いても蓋取るな」というのが広く知られていた。
鉄鍋 鉄鍋は,鎌や鍬を手がけた鍛冶屋ではなく,鋳物師(いもじ)によって制作された。なかでも「河内鍋」が名産としてよく知られていた。修理にあたっていたのは,鋳物師ではなく,鋳掛屋といわれる人たちであった。
土鍋 三重県四日市の萬古焼の土鍋は全国の土鍋の内うち80%のシェアを誇る。(2001)
取っ手の切れ込みは作る時の乾燥や焼成時に縮む際に力を逃がし、Sクラック(亀裂)が入るのを防ぐ目的で切れ込みを入れてある
蒸籠・蒸篭(せいろ)   粉でつくった団子や餅米などを蒸す道具で,筒型のものと角形のものがある。いずれも湯を沸かした釜の上に乗せて蓋をし,蒸気の熱で蒸し上げる。 
 そば屋で「もりそば」や「ざるそば」がせいろに盛られて出てくるのは,江戸時代に流行した,せいろで蒸す「蒸しきりそば」というメニューのなごり。【昔のくらしの道具事典】
臼・杵(うす・きね) 弥生時代から竪臼(搗臼つきうす),杵が使われるようになった。竪杵は横杵が使用されるようになって廃れた。
日本では,古代の稲作では穂刈りが行われ,そのまま貯蔵して食べる前に臼と立杵を用いて脱穀ともみすり(もみがらを除去すること)を同時に行っていた。
米搗き作業用には,てこの原理による踏み臼が使われた。すでに平安時代ころから存在したようであるが,広く普及するのは大坂,江戸など都市部で精白が専業化した17世紀初めころである。中国からの輸入技術なので〈唐臼〉と呼んだ。この場合の臼は,木製と石製とがあった。【百科】
粉搗臼(こづきうす)と手杵(てぎね) 団子を作るとき、屑米などを粉にするために使った。杵は竪杵。
磨臼(すりうす) @石臼(家庭でくず米を磨ったり,大豆の粉を作ったりするのに用いた。茶臼としても用いられた。
A唐臼:籾すり用として,大正時代まで使われた。中国から伝わったのでこの名がある。てこの原理による踏臼。
B踏臼(大唐臼ダイガラウス):精米用。動力として水車を使う場合はこれを水唐臼,添水(そうず)と呼んだ。
たわし わら(藁)やシュロの毛を切って束ね,鍋や桶をみがき洗う道具。柳田国男《方言覚書》によれば東京でもいくつかの名で呼んでいたが,亀の子束子という商品が盛んに売れたため〈たわし〉となったといい,束子は当て字で意味は不明としている。【百科】
亀の子束子 亀の子束子(かめのこたわし)は「束子」として東京市小石川区下富坂町の西尾正左衛門により,明治41年(1908)1月実用新案として出願され,同年7月に登録された。さらに大正2年12月に今度は特許出願され,大正4年7月特許第7986号として登録された製品。【伊達】  それまでは竹,カルカヤのささら状たわしや藁を使用。
米あげ笊 こめあげざる。米揚笊。研ぎ終わった米をうちあげ,研ぎ汁をきれいに切るのに使われた。
<参考> 米を研ぐとは,本来的には米粒と糠を分離させるだけでなく,かっては不十分な米搗き(荒搗きの状態)で済ませて,穀皮も完全に剥がされていない状態の中で,洗う作業の中に精米作業の仕上げ部分を含まなければならなかったため,もみ洗いしたもの。そのためには,適度にざらつきのある竹細工の編み目が非常に都合が良かったと言える。【神崎】
<参考> 稲穂/稲束→(脱穀/稲扱き)→籾:モミ→(籾すり)→玄米→(搗米:つきごめ)→白米/精米
飯櫃(めしびつ) 炊きあがったご飯を羽釜から移して保温し,また保存するために使われた容器。ご飯が蒸れるのを防ぎ,味もおいしかった。丈夫で香りもよいかとから飯櫃にはヒノキ材が一番良いとされる。「おひつ」,「おはち」とも。
履物 草履(ぞうり) 草履は鼻緒がついていて、下駄と同じ様な構造の物です。草鞋は先端から鼻緒に相当する二本のひもが出ているが、端は固定してなくて、両側にある乳(ち)という小さな輪を通してかかとを受ける大きな輪のかえしにかけ、足をしっかりとしばるような構造をした物です。基本的に草履はちょっと出歩くときに、草鞋は長距離を歩くときに履きます。【杉浦】
草鞋(わらじ) 上記参照
雪駄(せった) 皮の裏とかかとのかねが特長。裏にある金物をしり金という。
下駄(げた) <分類> @連歯下駄(れんしげた):一木作りの下駄
A差歯下駄(さしばげた):歯を差し込んだもの
三枚 羽が三枚で,歩きやすさのために生まれた下駄。
吾妻下駄 畳表を張った台に歯が差してあり前のめり。吾妻という遊女が使ったのが始めだという。
表付き下駄 わらや竹皮,立,シュロなどを草履に編んで表につけたもの。
花魁下駄 歯が三枚。花魁道中の時に花魁が履く物。三つ歯下駄。三枚歯下駄。
駒下駄 連歯のうち二つ歯のもの。関西で真(まさ)下駄という。
足駄 差歯下駄のうち,歯の高い二枚歯のもの。関西では高下駄という。雨や雪の時によく用いられた。樫などの減りにくい木が使用され,歯がすり減ったときは歯だけ交換することもできた。
ぽっくり下駄 台裏をくり抜いたもの。こっぽり下駄とも。これの低いものを舟底下駄という。
のめり下駄 台裏を斜めに切り後ろに歯のあるもの。神戸下駄とも。
後丸下駄 うしろまる。後ろを丸く削ったもの。
雪下駄 浅雪の歩行に使用し,歯の間が下に広がった台形や三角形をしており,雪が残らないようになっている。
日和(ひより)下駄 二枚歯の低い差歯下駄で,利休下駄ともいい,おもに晴天の日・雨上がりの歩行にはかれた。(下駄は原則的には雨の時に履くものであったが江戸中期以降に下駄がはやりだした。)
助六下駄 台の厚い差歯下駄。雨上がり用。
衣類等 裃(かみしも) 正しくは,上を肩衣(かたぎぬ),下が袴で,どちらも同じ生地で作る。
半纏(はんてん) 半天,絆纏などとも書く。衣服の上に着る半身衣。通常広袖で,家で用いる略服と,男子の仕事着として用いるものとがある。【百科】
略服としての 江戸時代以後,庶民の男女が家でふだん着の上にはおって着たもので,紬,縞物などで作り,黒の掛襟のかかったものもある。襟は羽織のように折り返らず,ひもも通常ついていない。これの一種に子どもを背負うときに用いるねんねこばんてん,丸形で綿の多く入った亀の子ばんてんなどがあり,実用着として機能的にできているものが多い。
男の仕事着としての 職人の仕事着に用いるものは多く紺の木綿で,袖は広袖だが,袖たけは短く,これに紋や文字を染め抜き,また種々の模様をつけたものもある。これを印(しるし)ばんてんという。
腹掛け 主として庶民階級の男子の間に行われた。下に〈どんぶり〉と称する大きなポケットがついており,これが体から離れているので前へかがんでも中のものが外へこぼれず,働き着の下着として機能的なものであった。紺のめくら縞(盲縞:経(タテ)・緯(ヨコ)ともに紺染にした綿糸で織った木綿平織物。)の腹掛けは,職人その他戸外労働に従事する人びとの愛用するところであった。浅葱(あさぎ)木綿の裏をつけ,内ポケットを設けてこれを〈隠し〉と呼んだ。【百科】
股引(ももひき) ズボン状の下半身に着用する下ばきの一種。江戸時代,職人がはんてん(半纒),腹掛けと組み合わせて仕事着とした。【百科】
蓑・簑(みの) わら,カヤ,スゲ,シナノキなどの植物の茎や皮,葉などを用いてつくった外被である。雨,雪,日射あるいは着衣が泥や水に汚れるのを防ぐために着用する。古くから農夫,漁夫,狩人などが着用した。【百科】
合羽(かっぱ) 語源はポルトガル語のカパ capa。@ラシャの合羽 ⇒禁令 ⇒A木綿合羽 ⇒B紙合羽(元禄年間(1688‐1704)後半には誕生)。防水のために荏油(えのあぶら)や桐油(とうゆ)などを塗った和紙(油衣,桐油紙)で作った合羽で,上質の荏油の合羽は大名行列などに用いられ,一般には安価で速成の桐油の合羽が常用された。【百科】
打(ち)飼(い袋) うちがいぶくろ。名前は狩り犬用の餌を入れる打ち飼い袋から始まったという説がある。武士が背負った網状の袋の物入れ。後に百姓、町人にも愛用された。 
Cf. 旅行李の振り分けスタイル
洗濯 桶盥(おけたらい) 近世になると桶盥が出現し,簡便でしかも大小さまざまな桶盥は以後の盥の主役となり,洗顔や洗濯ばかりでなく行水用としてもさかんに使われるようになった。
盥(たらい) 中世に入るとたらいでのもみ洗いが普及し,井戸端でしゃがんで洗濯をする光景が一般化した。洗濯板は明治以降に使われだした。【NHK】
張り板/伸子 着物を一度解いて生地にして洗う方法を解き洗いという。これには解いた生地を洗い,張り板に張って干す方法と,伸子シンシという竹ひごで布を広げて干す方法とがある。
洗濯板 洗濯板の登場は明治以降。
(天然石鹸) ムクロジ ムクロジの果皮はサポニンを多く含み,セッケンのない時代に洗濯や洗髪に用いた。
エゴノキ エゴサポニンを含む果皮を洗濯に利用したり,川に流してウナギなどの魚をとるのに用いられたので,セッケンノキやドクノミなどと呼ぶ地方もある。
サイカチ サイカチの果皮(莢(さや))はサポニンを含有し,セッケンの代用とした。
エンジュ エンジュの果皮(莢(さや))は石鹸の代用にもなる。
灰汁(あく) 昔は灰汁を使って,いろいろな物を洗った。油の付いた食器,汚れのひどい衣類などは,家庭でも灰汁を使って洗った。糠や米のとぎ汁も使用した。
掃除道具 叩き(はたき) はたく部分が今では布でできているが,江戸時代には通い帳や習字の反故紙をを細かく切って束ねたものを使っていた。
箒(ほうき)1 @座敷用は藁ワラ,ホウキモロコシ,ホウキギ(ホウキグサ)などの草ぼうき,A土間用用はスベ(藁の芯),シュロ,B庭,かど用は竹がその材料。
箒(ほうき)2 荒神箒 かまどをはく帚。かまどは荒神のいる所として、他の不浄の帚と区別していう。【広辞苑】
(材料) ホウキモロコシ 穂を箒やブラシとして利用するために栽培されるイネ科の一年草。モロコシの1変種。モロコシは熱帯アフリカ原産。日本では栃木県が主産地。
(材料) ホウキギ ホウキギは古名箒木(ははきぎ),ホウキグサともいい,葉や実を除いて草ぼうきをつくる。
化粧等  錫と銅の合金を土台にして,その上に錫と水銀で映りやすくするように上塗を施していた。年がたつと曇ってくるので,これを磨いてもう一度錫と水銀を塗ってもらう鏡磨きが冬の間来た。幕末には大阪を中心にしてガラスの鏡も作られている。
【鏡磨き】:朴の炭で汚れを取り水銀と純錫の練ったものを塗り朴葉で磨き仕上げた。
お歯黒壺 鉄片を茶や酢に漬け,酸化をよくするために飴なども入れ,付きをよくするために五倍子粉,ふしのきの粉も入れた溶液を入れた壺。
[参考]《万葉集》に詠まれた〈黄楊(つげ)の小櫛(おぐし)〉はツゲ製の横櫛のことを指している。また,平城宮址からはイスノキ製の櫛が発見されている。【百科】
笄(こうがい) 髷部分に差した髪飾り。棒状。簪よりも前に登場。
一本の四角い棒状の髪飾りで,右から左に突き通ったかたちとなる。最初は、髪かきといって,乱れた髪を直す爪楊枝の様な細くて華奢な物であったが,次第にしっかりした棒のような物に変わって,そこに髪を巻き付けて髷を作る道具になった。(髪を整える道具だったこうがいは後に髷を結うための用具になった。)【杉浦】
簪(かんざし) 髪飾り。先端が二股になって尖り,後部に耳掻きや装飾が付いたりしたもの。「髪差し」が訛ったもの。(例)びらびら簪
一般化したのは江戸中頃とされる。さまざまな細工が凝らされたが二本脚で頭に耳掻き付きのきまりは崩れなかった。【前川】
耳掻きの付いたものを「耳掻き簪」という。
耳掻き簪は当時,髪を結い上げた後,頭皮が痒いときに指が入らないのでこの簪でかいて,ついでに耳掃除もできるという事で大ヒット商品でした。【杉浦】
髪油 大別すると,髪につやと潤いを与えるものと,整髪を主たる目的にしたものとがある。日本の伝統的化粧品のなかでは,前者には水油,後者には伽羅之油(きやらのあぶら)とよばれていた鬢付油(びんつけあぶら)があった。【百科】
整髪料  整髪料としてはサネカズラ(ビナンカズラ)の枝から浸出した粘質物(キシログルクロニド)を,主として男性用に使っていたので美男葛とも書いた。江戸時代初期から,はじめは髭用に調合した練油に,さらに丁子(ちようじ),白檀(びやくだん),竜脳(りゆうのう),麝香(じやこう)などの香料を配合したものを伽羅之油と名づけ,市販した。鬢付油,すき油として男女ともに使われたが,これが江戸時代の髪形を多様化したひとつの理由ともいえる。【百科】
鬢付け油 びんつけあぶら。髪油の一。菜種油などと晒木蝋(サラシモクロウ)に香料をまぜて製した固練りの油。おもに日本髪で、おくれ毛を止め、髪のかたちを固めるのに用いる。固油。びんつけ。【広辞苑】
伽羅の油 きゃらのあぶら。鬢付油の一種。もと,ろうそくの溶けたものに松脂を混ぜて練ったもの。のちには大白唐蝋・胡麻油・丁子・白檀・竜脳などを原料とした。正保・慶安(1644〜1652)の頃,京都室町の髭の久吉(ヒサヨシ)が売り始めて広まった。【広辞苑】
水油 水油にはツバキ油,クルミ油,ナタネ油,サザンカ油,ゴマ油などの不乾性ないし半乾性植物油で,酸価の低いものが使われていた。
ツバキ油 伊豆諸島,九州南部が著名産地。古くから髪油として用いられてきた。効用としては毛髪の毛切れ・抜毛・裂毛防止,かゆみ止め,皮膚の炎症防止など。【百科】
(サザンカ油) サザンカ油は古くから日本でツバキ油と混和して同じように用いられてきた。【百科】
白粉(おしろい) 江戸時代の白粉には,伊勢白粉,御所白粉とよばれた軽粉(ケイフン,甘汞(カンコウ),塩化第一水銀)と,京白粉,生白粉,パッチリなどとよばれた鉛白(塩基性炭酸鉛)の2種類があった。
現在の白粉はタルク(滑石末),カオリン(白陶土),亜鉛華,酸化チタン,金属セッケン,炭酸カルシウム,デンプンなどが主成分である。
口紅 紅が一般庶民に使われるようになったのは,ベニバナ(西南アジア原産)の栽培が盛んになった近世に入ってからである。しかし,ベニバナは全国的に栽培されていたが,収量が少なく〈紅1匁,金一匁〉といわれたほど高価だった。
洗髪 1 鎌倉時代ころまでは,ビナンカズラを水に浸しその滲出粘液を洗髪と整髪に用いた。ムクロジ,サイカチの水溶性粘液も手軽に使われた。
2 室町から江戸時代にかけては,洗料も小麦粉,ふのり,粘土,滑石,緑豆,生大豆粉,ツバキの油粕,卵の白身など高級なものも使われだした。髪形の変化から,髷を固め光沢を出すための固練りの伽羅之油(きやらのあぶら)などが使われるようになると,それを洗い落とすため火山灰土や灰汁(あく)も利用された。
3 明治に入ってセッケンが一般に普及すると,男性の洗髪はもっぱらセッケンによることになるが,女性の日本髪や洋髪などには,白土(はくど)を混ぜた髪洗粉が使われた。
剃刀(かみそり) 武士が月代(さかやき)をそる習慣を始めたのは,貝原好古の《和漢事始》では織田信長とされており,それが広く普及したのは16世紀末以降である。当時のかみそりは刀鍛冶によって作られる打刃物で,貴重であった。片刃で,ひぞこのある点などが西洋かみそりと異なっている。【百科】
歯磨き 房楊子 柳が楊枝として用いられたのは薬効があるとされたからで,浅草寺境内の柳屋が有名であった。
歯磨き粉 寛永20年(1643)に朝鮮から伝わり,丁子屋が大明香薬砂として売り出したのが始まりとされている。房州砂に薄荷などの香料を加えたもの。
印籠 薬を入れ腰に下げる小さな容器。印籠は本来印判や印肉を納める容器であり,薬籠というべきこの種の容器を印籠と呼び慣わすようになった経緯はつまびらかでない。
旅用薬入れ 形はいろいろあるが、五種類を仕分け整理できる形式のものが多い。
喫煙具 煙管(きせる) 語源はカンボジア語のクシエル khsier(煙管の意)であるというのが,いまのところ定説とされている。通常,タバコをつめる口(火皿)のついた雁首(がんくび)すなわち火皿の湾曲している部分と,羅宇(らう)すなわち雁首と吸口との中間の管と,吸口との3部分から成る。【百科】
羅宇(らう)とはラオスのこと。元来ラオスから来た竹で煙管の管を作ったことから,煙管の管を羅宇という。
ポルトガル語で「吸うもの」を「キ・ソルベル」と言い,これがキセルになったのではないかとの説もある。
江戸末期には老若男女,吸わないものがいないくらいであったという。
羅宇煙管 最も一般的な竹の羅宇の煙管
延べ煙管 鍛銀による一体型の延べ煙管が江戸前とか。
紅羅宇の長煙管 花魁が持つ煙管で,一尺ほどの長さがある。これで「吸付(すいつけ)たばこ」といって,格子の中で吸い付けて,格子の外のお客さんに「一服おあんなんし」とやったそうな。【杉浦】
煙草入れ 携帯用の喫煙セット。
提げたばこ入れ きせる筒とたばこを入れる袋を根付で腰から提げて使用
腰差したばこ入れ きせるを筒に入れ、それを腰に差して使用
懐中たばこ入れ 主に武士・女性が着物の懐に入れて使用
とんこつ 木製の煙草入れ。煙管を入れる煙管筒(煙管挿し)にキザミ入れを紐でつないで腰に差して携行した。
煙草盆1(たばこぼん) @火入れ,A灰吹き(灰落とし),B煙草入れがセットとなった器。取っ手のついたものを手提げ煙草盆とも。客が来るとまず最初に煙草盆を出した。
煙草盆2 登場は江戸初期。当初は浅い盆に「火入れ」(埋火(うずみび)で火をつける)と「灰吹き」を並べたものであったが、次第に盆が深くなって箱状となったが盆の名は残った。【前川】
火入れ 陶器あるいは鉄器でつくられ,埋み火(うずみび゙:灰の中に火の付いた炭を埋めて熾(おき=熾火)にしたもの)を入れておく器。
灰吹き1 煙管の灰を吹き落とすための器。色々な素材があるが基本は竹の筒。真竹や猛宗竹を節付きで切って,匂や灰が飛ばないように蓋を付けたもの。「吐月峰柴屋寺」製の灰吹き(竹製)は良質で人気があり、「とげっぽう」は灰吹きの代名詞であった。
灰吹き2 吐月峰(とげっぽう⇒はいふき)とも書いた。灰吹きを作った竹の採取地の東海道鞠子付近の小山を連歌師の宗長がこう名付けたことに由来する。
火縄(ひなわ)  火縄銃や煙草などに火をつける火種に用いた細縄。木綿糸や木綿布の端切を細く裂いたもの、竹や檜皮などを叩いて柔らかくしたものなどでなった細縄で、少量の焔硝(硝石)を混ぜたものもあった。火縄銃用の火縄は、竹筒に入れて携帯した。これを火筒・火縄筒といった。
【民具の事典】
煙草の着火用の火縄は、芝居小屋で利用されたほか、火縄箱(次項を参照)に入れたり竹枝に絡めて携行する利用が見られた。
火縄箱(ひなわばこ) @携帯用の喫煙用具箱。火縄と火打石が入っており,火縄で火をつけた。
A煙草を吸うための,火を付けた火縄を入れておく引き出し付きの木箱。【江戸語辞典】
B船中などでタバコを吸うために、火縄に火をつけて入れておく箱。【日本国語大事典】
柳橋の船宿から遊郭の吉原、岡場所の品川等へ客を運ぶ猪牙船(ちょきぶね)の船頭は客用としてこれを船に持ち込んだことが知られている。
和傘 和傘は柄を下にして立てかける。洋傘と反対。
番傘 竹骨に紙を張り油をひいた簡素な雨傘。骨太で丈夫にできている。蛇の目傘のようなかかり糸はない。呉服屋などではこれに屋号などをつけて貸し傘にしたりした。
蛇の目傘 中心部と周辺とを黒・紺・赤色などに塗り、中を白くした傘。開いたときに蛇の目に見えることで蛇の目傘の名がある。黒蛇の目・渋蛇の目(中央と周囲に渋を塗り,紅殻でで色を付けたもの)・奴(やっこ)蛇の目(周囲二寸ほどを淡黒色に塗ったもの)などがある。元禄時代から使用。「蛇の目」とも。細くて軽いため,主に女性が使った。
蛇の目は魔物の邪視から身を守る魔除けの護符。
野点傘(のだてがさ) 茶道の野点(のだて)の時、あるいは社寺用に用いる大きな傘。飲食店などでも装飾品として利用される。
羽二重傘(はぶたえがさ) 羽二重(はぶたえ)の生地に手漉き和紙を裏打ちして作った傘。軽く色鮮やかで贅沢な傘。昔は嫁入りの時には必ず男女ペアの傘を持参したという。
日傘 江戸時代、幕府や諸藩では贅沢品としてたびたび禁止したとされるが、あまり効果はなかったという。
紅葉傘 中央を丸く青土佐紙で張り、外側は白紙で張った雨傘。貞享(1684〜1688)頃から江戸に流行、初めは日傘にしたという。江戸で作られたもの。