トップページへ   樹の散歩道目次へ
樹の散歩道
   かつて大日本帝国海軍には
    樹木の名前の駆逐艦が存在した


 旧海軍の艦艇の名称は、日本の旧国名、飛翔動物、山岳・河川、天象・地象等、いわば森羅万象系のものとなっていて、別にこの方面の趣味的な知識の蓄積はなくとも、日本男児たるもの誰でも艦艇の種類別に数種類程度の名称を空で言うことはできるはずである。しかし、やや地味な存在ではあるが、駆逐艦のうちの小型のものに対して穏やかな草木の名前も多く使用されていたことは、現在ではそれほど広くは知られていない。
【2011.1】 


                   一等駆逐艦 夕雲 2,077排水トン(船の科学館展示物)

 これは樹木系の名称ではないが、やや大きいタイプの駆逐艦である。本艦は太平洋戦争下、ミッドウェー海戦、ソロモン海戦、ガダルカナル輸送作戦と緒戦を戦い抜くも、昭和18年、米海軍の駆逐艦の雷撃を受けて無念の沈没。
                  二等駆逐艦 芙蓉(ふよう) 900排水トン(船の科学館展示物)

 樹木系の名称の二等駆逐艦の例。草木の名称は二等駆逐艦(1,000トン未満600トン以上)と一部の一等駆逐艦に使用されたという。本艦は太平洋戦争中は対潜哨戒、船団護衛等に就いたが昭和20年、米海軍の潜水艦の雷撃を受けて無念の沈没。  


   海軍の艦艇の名称に、あまりにも穏やかな、時に何とも優しい草木の名前が使用されていたことを知ると、そのギャップに戸惑いを覚えるほどである。たとえば、あの繊細・可憐な「菫(すみれ)」の名も確認され、その置かれた状況や期待された役割に対して残酷なまでにかけ離れたイメージがあり、さらにこれら諸艦がたどった運命と照らし合わせると悲惨な印象が一層強くなる。

 しかし、実際はそういう問題ではなかったのであろう。小型の艦艇では重々しく旧国名など使うこともないから、名称は単に識別記号として機能していたのであろう。

 それにしても、敗戦国とは悲しいものである。今でも名を残している戦艦、空母、巡洋艦等々、多くの艦艇が乗組員とともに今でも南の海に沈んでおり、また、何とか無疵で残った艦艇も戦勝国のやりたい放題で、めぼしいものは山分けの餌食になっている。明らかな極悪火事場泥棒であった強欲なソ連に至っては、駆逐艦6隻、水雷艇1隻、海防艦17隻、輸送艦2隻、掃海艇1隻、掃海特務艇3隻など計34隻を賠償艦の名の下に奪い取っていったという。

 南の海に沈む多くの艦船、奪い取られた多くの艦船、これらはすべて日本国民が赤貧に堪える中で、多くの技術者が様々な制約に苦しみながら設計し、多くの労働者、勤労動員学徒が必死の思いで作り上げ、送り出したものばかりである。

 以下に裏方的存在であった駆逐艦のうち、樹の名前を持つものを掲げ、無念の思いをまた新たにしたい。 
   
    樹木系の名称の大日本帝国海軍の駆逐艦    
 
 
艦名 読み  基準排水量(トン) 経 過 運 命 
うめ 1,262  1945年1月31日、ルソン島から搭乗員救出作戦中、台湾南方で米機の爆撃により沈没  機械室を破壊されて航行不能になる。「汐風」の砲撃により自沈処分となる。約80名戦死。
えのき 1,289  終戦4ヶ月前に竣工し戦歴なし。終戦時大破のまま舞鶴港に残存  1945年6月26日小浜灯台沖で触雷のため大破し、1948年解体。
雄竹 おだけ 1,289  橘型13番艦。終戦直前に竣功のため特に戦歴なし。終戦時無傷で残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月4日青島で米国へ引渡し、その後売却・解体。
かえで 1,262  1945年はじめ台湾香港方面への船団護衛に従事。終戦時無傷のまま呉に残存  復員輸送に従事後、1947年7月6日 中華民国(台湾)に賠償艦として上海で引き渡し。
かき 1,289  竣功がおそく戦歴なし。終戦時小破のまま舞鶴に残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月4日青島で米国へ引渡し。
かし 1,262  1944年末より、45年初頭にかけフィリピン方面の船団護衛に従事。その間サンホセ突入作戦に従事。終戦時無傷のまま呉に残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)8月7日佐世保で米国に引渡し、そのまま売却され、翌年笠戸ドックで解体。
かば 1,289  内海西部にて対空戦闘に従事。終戦時軽微な損傷のまま呉に残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)8月4日佐世保で米国へ引渡し。そのまま国内で売却され、同年10月から翌年3月まで三井造船で解体。
かや 1,262  戦歴なし。終戦時無傷のまま瀬戸内海に残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月5日ナホトカでソ連に引渡し。
きり 1,262  松型6番艦。レイテ湾海戦には機動部隊の直衛として参加。終戦時無傷のまま瀬戸内海に残存  復員輸送に従事後、1947年7月29日 ソ連に賠償艦としてナホトカで引き渡し。
くすのき 1,289  特に戦歴なし。終戦時無傷のまま舞鶴に残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月16日シンガポールで英国へ引渡し。
くわ 1,262  松型5番艦。レイテ湾海戦(第七次レイテ輸送作戦)には機動部隊の直衛として参加。   1944年1月3日、フィリピンのオルモック湾において(オルモック輸送作戦中)、水上艦艇の砲撃により沈没  レイテ島オルモック湾に進入し揚陸作業を開始したが、その最中に米駆逐艦「アレン・M・サムナー」「クーパー」「モール」の攻撃を受けて沈没。
けやき 1,262  内海西部にて対空戦闘に従事。終戦時無傷のまま瀬戸内海に残存  1947年7月5日 米国へ賠償艦として横須賀港で引き渡され、米海軍により標的として海没処分。
さくら 1,262  1945年7月11日船団護衛中大阪港北突堤沖(泉灘)においで触雷、沈没 ・・・
しい 1,289  内海西部にて対空戦闘に従事。終戦時軽微な損傷のまま残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月5日、ナホトカでソ連に引渡し
すぎ 1,262 松型7番艦。レイテ湾海戦(第八次レイテ輸送作戦)には機動部隊の直衛の一艦として参加。引き続き比島オルモック輸送作戦、サンセ突入作戦などにも参加した.終戦時無傷のまま呉に残存 戦後は復員輸送に従事後、国府海軍(のちの台湾海軍)に引き渡し

(草本)
すみれ 1,289  橘型6番艦。竣功おそく特に戦歴なし。終戦時無傷のまま舞鶴に残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年8月20日に香港で英国へ引渡し、同年シンガポール沖で標的として処分。
たけ 1,262  1944年7月より6カ月間、パラオ、フィリピン方面への輸送に従事。終戦時無傷のまま瀬戸内海に残存  戦後は復員輸送に従事し、1947年7月16日英国に賠償艦として引き渡され解体。
たちばな 1,289  1945年7月14日、函館湾において、空母の攻撃を受け沈没  156名が戦死した。
つた 1,289  水雷戦隊の一艦として訓練に従事。終戦時無傷で佐世保に残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月31日中国に引渡し。
椿 つばき 1,262  1945年前期、内地〜上海間の船団護衛に従事。1945年7月24日岡山沖で米空母機の爆撃で中破のまま呉に残存  1948年播磨造船呉ドックで解体。
なし 1,289  橘型10番艦。竣工後瀬戸内海において訓練に従事し、1945年7月28日、山口県光沖で回天と連合訓練を実施中、米艦載機の攻撃を受け、柳井沖で沈没  戦死者60名以上。1954年(昭和29年)6月に引き上げられ、再生可能とわかり、1956年(昭和31年)自衛艦わかば≠ニして再生された。
なら 1,262  松型12番艦。1945年6月30日、関門海峡で触雷、船尾を損傷して航行不能。  船体はそのまま放置され、1948年(昭和23年)5月に解体開始、7月1日解体完了。
にれ 1,289  内海西部にて対空戦闘に従事。終戦時中破のまま呉に残存  1948年解体。
はぎ 1,289  内海西部にて対空戦闘に従事。終戦時軽微な損傷のまま呉に残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月16日シンガポールで英国へ引渡し。
初梅 はつうめ 1,289  1945年6月26日、舞鶴付近において敵機の来襲を受け損傷のまま残存  復員輸送に従事後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月6日上海で中国に引渡し。
初桜 はつざくら 1,289  終戦2ヶ月前に竣工のため戦歴なし。終戦時、無傷のまま横須賀に残存  復員輸送に従事後、1947年7月29日、ソ連へ賠償艦として引き渡し。
ひのき 1,262  1945年1月7日、マニラ西方海面おいて駆逐艦3隻と交戦、大破後に爆撃を受けて沈没 ・・・
まき 1,262  松型8番艦。レイテ湾海戦には機動部隊の直衛の一艦として参加。1944年末マニラ方面への船団護衛に従事し、45年4月の沖縄突入戦に参加。終戦時無傷のまま瀬戸内海に残存  戦後は復員輸送に従事後、英国に賠償艦として引き渡されたが解体。
まつ 1,262  1944年8月4日、父島輸送作戦中、同島北方で米水上部隊と空母機の攻撃により沈没  高松少将以下全員戦死
もみ 1,262  松型9番艦。1945年1月5日マニラ西方海面において、駆逐艦3隻と交戦、大破後に爆撃を受けて沈没 ・・・
もも 1,262  松型4番艦。1944年12月15日南シナ海(リンガエン湾の西方)で、潜水艦ホークビルの雷撃を受け沈没  艦長以下30名が戦死。
やなぎ 1,262  竣功おそく戦歴なし。1945年7月14日大湊で米機の爆撃で大破のまま残存  戦後、1946年10月から翌年5月まで解体作業。
 
 
注1: 該当するものすべてではない。
注2:  「駆逐艦」とは砲・水雷などを主要兵器とし、敵の主力艦・潜水艦・航空機を撃破(駆逐)するのを任務とする小型の艦艇。沿革的には水雷攻撃専門でチョロチョロ走り回る小型の水雷艇を駆逐するための艦艇に始まり、時代の変化に伴い対潜水艦、対航空機の武装が付加されたり、戦況により、輸送船の護衛、小規模の機動性を求められる輸送をも担った。
資料: 日本軍艦写真総集(1970.1.19、光人社)
写真日本の軍艦第11巻(1990.6.29、光人社)
  日本海軍艦艇写真集(2005.10.14、ダイヤモンド社) ほか