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江戸生活・風俗ことば |
江戸川柳,江戸小咄などを理解するための基本単語を抽出した。 |
ありんす国 | ありんすこく | 吉原の異称。ありんすことばは,吉原の遊女の国訛りを隠すことから生まれたとされる。放っておけば,そうだべさ・・・,おら知んねえ・・・となるそうな。 |
幾世餅 | いくよもち | 切り餅をあぶって小豆餡をつけたもの。元禄(1688〜1704)の頃、江戸両国の小松屋喜兵衛が妻「幾世」の名をつけて売り出し評判となった。 |
色比丘尼 | いろびくに | 尼僧スタイルの私娼。 |
越前 | えちぜん | 包茎。越前の殿様の槍の先には熊の皮がかぶせてあったことに由来する。 |
岡場所 | おかばしょ | 私娼街を公認の吉原以外の遊所ということで岡場所と総称した。所在地域としては,三田,麻布,市ヶ谷,本郷,浅草,本所,深川など広範囲にわる。品川,新宿,板橋,千住の四宿(ししゅく)も岡場所に含めていたが,これらは飯盛(めしもり)女を置く半公認の地区であったことから,他と区別して考えるのが適当とされる。(⇒ 四宿を参照) なお,岡場所としては深川が最も有名。【百科より】 |
踊子 | おどりこ | 踊りを表芸にして市中の各所に起こった私娼(ししよう)で,のちの芸者。転び代は二分(一両の半分)というのが相場。遊郭よりお手軽で,御留守居役にとっては重宝な存在だったといわれる。踊子の生息地は薬研堀近くの橘町が有名。普通は「母(かか)さん」と呼ばれる年寄り女に付き添われ,2〜3人の子持ちでも娘姿で,年齢も10歳から15歳ほどもさばを読んで,聞かれれば十九と答えるのが常であったという。 |
陰間 | かげま | 江戸で用いた男娼(だんしよう)の通称。1652年(承応1)に若衆(わかしゆ)歌舞伎が禁止されたのは,その役者が男色の対象とされ,売色が盛んに行われたためであったとされる。舞台に立つ前の少年役者の売色が多く,それを専業とするものも少なくなかった。こうして〈陰の間〉の役者,つまり舞台に出ぬ役者の意の陰間が,男娼の通称となった。【百科】 |
陰間茶屋 | かげまちゃや | 陰間による売色の場を提供する家を陰間茶屋と呼び,陰間を抱えている家を子供屋といった。芳町,木挽町は芝居町に近く,一方湯島,芝神明は寛永寺,増上寺に近く僧侶たちを客にしたという。なお,芳町は江戸で最も有名であった。【百科】 |
葛西舟 | かさいぶね | かさいぶね。葛西の農夫が江戸の糞尿を運んだ船。江戸の町々で汲み取られた糞尿は,近郊の農地へ馬や馬車で運ばれ,田畑の肥料として活用されたが,同時に舟に積まれて葛西地方にも運ばれた。この糞尿運搬船は,葛西舟と俗称された。葛西は武蔵国の地名で,今の東京都江戸川区の南部および葛飾区の江戸川と中川とに挟まれた地帯。現在、江戸川区南部の地名として残る。 |
笠森稲荷 | かさもりいなり | ・江戸谷中(台東区上野)。笠→瘡,森→守から,梅毒に効験があると信じられ,日ましに江戸者の信仰があつくなった。 ・天正12年(1584),羽柴秀吉と徳川家康が長久手で戦った折り,家康は腫れ物に悩まされていたが,家臣の倉智甚左衛門が摂津の国島上郡真上村の笠森稲荷に祈ったところ快癒してなおも戦勝をもたらした。天正18年(1590),家康が江戸に居城を構えたとき,甚左衛門も江戸入りをして,真上村の笠森稲荷を江戸谷中に勧請したと伝えている。 ・現在,東京上野の谷中には笠森稲荷を祀っている寺が三箇所ある。天台宗養寿院,浄土宗功徳寺,日蓮宗大円寺の寺々であるが,江戸古図の所在地からみると,浄土宗功徳寺が一番近いように思える。 ・この笠森稲荷の本源は,大阪市高槻市真上に鎮座する笠森稲荷社である。【山口謙二】 |
笠森稲荷2 | かさもりいなり2 | 笠森稲荷は谷中天王寺中門の前にあった。これを谷中三崎町の大圓寺にあった瘡守稲荷と混同し、瘡毒患者が祈願する習慣になった。 【大曲駒村編:川柳大辞典】 |
笠森おせん/お仙 | かさもりおせん | 江戸谷中(台東区北西部)の感応寺境内の笠森稲荷の門前で水茶屋を営む鍵屋五兵衛の娘(看板娘)。明和5年(1768)に浮世絵師鈴木春信の錦絵が売り出されると,モデルのおせんは「笠森おせん」として爆発的に人気者になった。なお,腰巻きお仙は唐十郎の作品。 |
甘草まら | かんぞうまら | まらの一級品とされるが,どんなものやら・・ |
くわい | くわい | 江戸時代に,なぜか「くわい」を食べると精水が減って腎虚になるという俗説があった。 |
毛切石 | けきりいし | 除毛用。刃物を使うと毛先がチクチクすることから,その道のプロの女性は石をすり合わせたり,線香で焼いたりして除毛した。 |
けころ | けころ | 「けころ」は蹴転ばしの略ともいわれるが,上野山下の娼婦を「けころ」と呼んでいた。短時間で客をこなし,代金が二百文。蹴って転がしてでも客を引きずり込むとの意とする説明もある。 |
小股 | こまた | (例)小股の切れ上がったいい女 この「小股」には諸説あり。@うなじ,A目が涼しく,切れ長な目である。B小は接頭語で,小股は股の付近。大体股の付け根付近をいう。足は横から見るとS字型曲線で,多少O脚。着物をまとった場合に色っぽいとか。 |
山帰来 | さんきらい | ・サルトリイバラに似たユリ科のつる性木本で,その根茎が中国から輸入されて梅毒治療に使われた水銀剤による中毒の解毒剤とされた。サルトリイバラはこの代用とされたといわれる。 ・湯浅明氏はこの名の由来を次のように紹介している。 「山帰来については,中国のこんな昔語りがある。かつて梅毒は恐ろしい不治の病だったため,感染した人は村落を追われて山の生活をしなければならなかった。しかし,山には十分な食糧がない。しかたなくイモに似たサルトリイバラの根茎を掘ってたべる患者もいた。すると,どうだろう。いつしか病が治って村落に帰ることができたのだ。これが「山帰来」の名の由来とされている。(「いま、花について」) 【注】出典は不明。サルトリイバラとしていることにも疑問があり、検証が必用。 |
地黄丸 | じおうがん | 地黄を主剤として作った強壮・補血剤。本町に地黄丸本舗の岡田忠助の店舗があった。 |
地黄丸2 | じおうがん2 | 回春強精剤として有名。これはゴマノハグサ科カイケイジオウの根(乾燥剤)。 |
四宿 | ししゅく | 品川宿が東海道の第1宿であったことは,ここが江戸の出入口であると考えられ,千住(日光道中),板橋(中山道),内藤新宿(甲州道中)とともに四宿といわれ,江戸の内外を分ける一つの目安となった。 |
四宿@ | ししゅく | 【品川宿】:武蔵国荏原郡の東海道の宿駅。古くは品川郷,品川町,品川浦などとも呼ばれた。品川の地名は,すでに12世紀末に見られるが,14世紀後半から15世紀末にかけては品川湊が繁栄し,富裕な町人も出現した。江戸時代には宿駅が設けられ,東海道の第1宿として知られた。江戸日本橋へ2里(7854m),川崎宿へ2里半を継ぎ送りする。 |
四宿A | ししゅく | 【内藤新宿】:江戸の北西部,武蔵国豊島郡に設置された甲州道中の宿駅。江戸の歓楽地としても繁栄した。この地は江戸へ入る北西の入口になっていたために,甲州,青梅の両道を経由して送られてくる商品がここでも売買され,内藤新宿を中にはさんで東の四谷から西の角筈(つのはず)にかけ,農村の生産物を取り扱う問屋が多く成立した。 |
四宿B | ししゅく | 【千住(せんじゅ)宿】:江戸期,千住は幕府直轄領。1625年(寛永2)奥州街道,日光道中(千住〜宇都宮間の17宿が重複)の初宿に指定された。江戸四宿のうちで最長の町並みの宿場。 |
四宿C | ししゅく | 【板橋宿】:中山道の第1の宿として板橋宿が置かれ,中心部に問屋場,貫目改所,高札場,本陣などの施設が設けられた。 |
品川 | しながわ | 江戸の主要な出入り口の品川は,東海道の第一駅として繁栄し,「北狄にやわか南州おとるべき」という句もあるように,北と呼ばれた吉原に対して,南といわれていた。品川宿の飯盛女は,明和元年(1764)に500人,天保(1830〜44)ごろには,1500人にも達したというから,その繁栄ぶりは四宿きっての素晴らしさだったという。 |
品川宿 | しながわしゅく | 品川宿は三つに分かれ,目黒川の境橋(中の橋)以南を南品川宿,以北を北品川宿と呼び,さらにその北方を歩行(かち)新宿と呼んでいた。 |
品川遊里 | しながわゆうり | 四宿の一つである品川遊里は,江戸の大寺の増上寺の僧侶と,薩摩屋敷の武家の客が多かったと言われている。薩摩藩の屋敷は,芝三田四国町にあった。 |
信濃 | しなの | 冬期に信州から力仕事ので稼ぎに来る者で,大飯喰らいとされていた。 |
小便組 | しょうべんぐみ | 悪辣な妾稼業。若い娘を金持ちのところへ妾として奉公に出してわざと寝小便をさせ,旦那に音を上げさせて支度金を頂戴したままにし,これを繰り返してたんまり稼ぐ輩がいた。 |
しらくも・はたけ | しらくも・はたけ | シラクモには生きた泥鰌を転がしてぬるぬるした液を薬とし,ハタケにはウグイスの糞が効くといわれた。 |
虱(シラミ) | しらみ | 人に寄生するシラミには頭髪のアタマジラミ,衣服の内側に付着するコロモジラミ,陰毛に寄生するケジラミに区別されるが,前二者は繁殖部位が違うだけで生態的には同一種とされる。 |
腎虚 | じんきょ | 交合過多のために腎水が欠乏し,体が衰弱すること。江戸の人たちは精液を腎水と呼んでいた。腎臓でつくられると信じていたことによる。精力の旺盛な人を腎張りと称し,逆に虚弱な人を腎虚といった。したがって腎虚は病名ではなくて症状であるとされる。豊臣秀吉の死因は荒淫による腎虚といわれている。 |
腎水 | じんすい | 男の精液は腎臓から出るものと考えられていた。そこで精液を腎水と称する。 |
新吉原 | しんよしわら | 明暦3年(1657),浅草観音の裏地,日本堤近くに移転させられた。これが新吉原(現東京都台東区千束4丁目)の誕生であり,夜間営業も許可されて,不夜城とも言うべき歓楽境になった。昭和33年(1958)4月施行の売春防止法によって消滅した。 |
吸付けたばこ | すいつけたばこ | 吉原の遊女が格子の向こうの客にきせるの吸い口を差し出す |
疝気 | せんき | せんき。腰部・下腹部が痛む病気。睾丸炎,陰嚢水腫,尿路結石等を含む下腹痛症候群。寒冷の時に悪化するのが特徴。マタタビが効果があるといわれていた。 |
瘡毒 | そうどく | そうどく。梅毒のこと。梅毒が伝来したのは室町後期の永正九年のこと。これを日本に運んだのは,悪名高い海賊の和冦であるという。 |
瘡毒2 | そうどく2 | 瘡毒の薬としては水銀剤ぐらいしかなかったが,有名だったのは両国吉川町の紫金膏。看板に兜の商標をつけていたので,通称兜膏と呼んでいる。これは軽粉(塩化第一水銀)が主剤なので,水銀中毒は避けられなかった。その解毒に山帰来(さんきらい)を使った。 |
瘡毒3 | そうどく3 | 山帰来は水銀中毒の解毒に使った和漢薬であった。和漢三才図会によると,瘡毒の重傷者は山野に捨てられたりしたが,やがて生薬である土伏苓(サルトリイバラに似たユリ科のつる性木本植物)を服用させ,病人を山から連れ帰るようになったとしている。和漢三才図会には,ひきつり,骨痛,悪瘡を治し,汞粉(水銀)の毒を解すると記してある。 |
瘡毒4 | そうどく4 | 【水銀軟膏】水銀の殺菌・殺虫作用を応用した軟膏で,古くから各期梅毒に使用されたが,現在は適用されず,ケジラミなどの皮膚寄生虫に対し皮膚,毛髪に塗布する。ただし,ケジラミの成虫は死ぬが,その卵は死滅しないといわれている。刺激性が強く,また連用すれば中毒の危険があるため,現在ではほとんど使用されない。組成は,全量1000g中水銀330g,黄色酸化水銀微末5g,オレイン酸15g,精製ラノリン40g,白色軟膏610g。【百科】 |
大黒 | だいこく | 僧侶の妻の俗称(隠し妻の隠語)で,秘密の存在であったもの。 |
竹瀝 | ちくれき | 竹を火にあぶると,切り口から汁液が垂れてくる。竹の油で,漢方では竹瀝という。これを内服すると痰の出がよくなり,肺炎などの高熱を下げる作用がある。また,長患いで衰弱した病人に滋養強壮の働きを示す薬とされてきた。 |
中条 | ちゅうじょう | 堕胎専門医。もとは豊臣秀吉の臣下,中條帯刀(たてわき)を祖とする婦人科医であるが,江戸時代に至っては婦人科医としてよりは,堕胎医者として著名になった。中條流。 |
出会い茶屋 | であいちゃや | 現代で言うラブホテル。上野の不忍池端に軒を並べて営業をしていた茶屋が著名で,男女の密会に利用された。約一時(いっとき)の賃料が食事を含めて,一分が相場。不忍池が蓮で有名であったので,この出会茶屋を「蓮の茶屋」ともいう。 |
比丘尼 | びくに | 比丘とも略し,俗に唄比丘尼と呼ばれた娼婦。神田多町から須田町辺りに居住していたといわれ,比丘尼横町という俗称まであった。遊び賃は百文くらい。本来は出家した女性の僧をいう。 |
深川芸者 | ふかがわげいしゃ | 羽織を着ているのが特色だったために羽織芸者とも呼ばれ,粋と歯切れの良さ,それにあだっぽさで江戸っ子の人気をさらった。深川は東南にあるので辰巳という。このため辰巳芸者の名もある。(吉原は北方にあるので北里という。) |
船饅頭 | ふなまんじゅう | 大川に船を浮かべて客を引いた街娼。 |
篇乃古 | へのこ | 魔羅 |
幇間 | ほうかん | (「幇」は、たすける意) 客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける男。たいこもち。男芸者。【広辞苑】 |
幇間2 | ほうかん2 | 最後の太鼓もち⇒ 桜川善平,悠玄亭玉助 |
本吉原 | ほんよしわら | 現在の東京都中央区堀留(ほりどめ)2丁目辺に相当する葺屋町辺で,葦(あし)や葭(よし)が生えていた原なので,縁起を担いで吉原と称した。はじめは,江戸町,同二丁目,京町一丁目,同二丁目,角町の,いわゆる五丁町で,その中通りを仲之町と称し,営業は昼間に限られていた。元和4年(1618)開業。 |
飯盛女 | めしもりおんな | 宿場女郎 |
山伏 | やまぶし | 男根の異称。 |
遊所 | ゆうしょ | 江戸の町には公認の吉原遊郭,準公認の品川,新宿,千住,板橋の四宿(ししゅく)があった。このほかにも各町ごとに隠し町があるといわれたほど遊所は多かった。 |
湯女 | ゆな | 入浴を世話し,浴後の接待をする接客婦。江戸初期にはふろ屋に湯女をおいて湯女ぶろと称し,浴客のあかを指で落としたのであかかき女とも呼んだ。1軒に20〜30人の湯女を抱え,夕刻以後は着飾って歌舞を演じて遊女と変わらず,その風俗は〈湯女図〉に描かれている。丹前ぶろの勝山などは後年に名を残した。幕府は1軒に湯女3人と制限し,江戸では1657年(明暦3)に全廃して吉原に合併させた。京都,大坂には髪洗女の名でその後も存続し,また各地の温泉場にもそれぞれの俗称をもった湯女がいて接客した。【百科】 |
楊弓 | ようきゅう | 室町時代は上流階級の遊技であったが、江戸時代に大衆化し、お寺や神社の境内にあやしげな弓場(矢場)が立ち並び、矢場女(矢取女)めあての客が夢中になった。【前川】 |
夜鷹 | よたか | 江戸で夜鷹の巣窟は第一に本所吉田町(現東京都墨田区石原四丁目)であった。その他多くの場所に出没したが,吉田町以外では,柳原土手が有名であった。語源ははっきりしていない。 |
四目屋 | よつめや | 両国にあった性の秘具・秘薬を売る店として著名。両国米沢町二丁目,四つ目屋忠兵衛店。近江源氏佐々木氏が団結の印に用いた四つ目結いを家紋としていた。名物は長命丸(射精を遅らせる塗布薬),女悦丸,イモリの黒焼き。店は明治中頃姿を消してしまった。 |
労咳 | ろうがい | 肺結核の旧名。 |
<参考>小間物類リスト |
吾妻形,陰戸形 | あづまがた | 殿方が装着。 |
兜形 | かぶとがた | 甲形。殿方が装着。鼈甲か水牛の角で作ったもの。 |
革形 | かわがた | ビロードの代わりに革を使用したもの。 |
互形 | たがいがた | 張形2本の底と底を合わせたような形で,つなぎめの部分が刀の鍔(つば)のように張り出している。別名両首(りょうしゅ)。ご婦人二人で利用。 |
長命丸 | ちょうめいがん | 殿方用。二枚貝の貝殻に入った丸薬で,いくつかをつばで溶いてモノに塗る。匂いつけのための丁字,竜脳,ジャコウなどのほかに,阿芙蓉(あふよう)、蟾酥(せんそ)などが入っていたという。 ほかに鶯命丹(おうめいたん),玉鎖丹,如意丹,西馬丹,人馬丹,陰陽丹,壮腎丹,蝋丸,通知散,得春湯,遍宮春等の名前が知られている。多くはコショウ,山椒,山芋あたりを混ぜて作ったものらしい。 |
朔日丸 | ついたちがん | 避妊薬。毎月1日の日に飲めばその月は安全というふれこみ。 |
天女丸 | てんにょがん | 避妊薬。江戸後期の草双子・滑稽本作家の式亭三馬が発売していたとされ,まるで効き目がなかったとも言われる。 |
海鼠の輪 | なまこのわ | 鼈甲や角革製で,カリが高くなることによる効果と長持ち効果があったとか。 |
女悦丸 | にょえつがん | ご婦人用。丁子と山椒が成分で,「よき酢にて和らげ,行なわんと思うとき玉門に入れおき,しばらくして取り掛かれば女喜ぶこと甚だし」とのこと。 |
張形 | はりがた | ご婦人用。水牛角,鼈甲,木,クジラの歯などで作った。短いものは久志理(くじり),つめ形,やそ形,せせり形などと呼ばれた。「ご用のもの」,「箱入り息子」などの異名もある。 |
肥後ずいき | ひごずいき | ハスイモの茎で、それを乾燥して紐状にしたもの。食用以外での利用が有名になったもので,これを巻いていたすと,ご婦人は形容しがたいムズムズ感を経験できるとか,随喜の涙を流すとかいわれている。現在でも正々堂々と販売されており,インターネット通販も盛んである。【2003】 |
妃女啼輪 | ひめなきわ | 鎧形から頭の部分を取った形状。 |
帆柱丸(危檣丸) | ほばしらがん | いわば江戸時代版バイアグラ。「妻なき男は容易に服用すべからず」との注意書きがあったという。 |
鎧形 | よろいがた | 殿方用。筒の胴に格子状の穴をあけて,上に兜形をつけたような形状。別名,助け船。 |
琳の玉 | りんのたま | オランダからの輸入品がもっとも上質であったという。出すときは,俯きにして,尻をぽんぽんと叩けば簡単にころがり落ちるという。(ほんまかいな。) |
琳の輪 | りんのわ | 雁際に巻き付ける。 |