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樹の散歩道
 
  化け猫の好みは菜種油かそれとも魚油か?
    失意の日本猫の軌跡
             


 障子に映る化け猫の影。ぺちゃぺちゃと音を立てて油をなめる音が・・・。日本の伝統的な文化が育んだ大好きなイメージである。デフォルメされた狸や蛸も大好きであるが、化け猫には猫娘とは違う妖しい魅力がある。さて、この化け猫がペロペロやっていたのはもちろん行灯の油であるが、なぜ油なのか、また、菜種油魚油のどちらが好みなのであろうか。【2009.2】 


 本件は、化け猫に聞くのが一番であるが、これはかなわない。しからば近所の知り合いの猫で試してみたいと考えるも、江戸時代に菜種油と並び灯油(ともしあぶら)として利用されたという魚油(ソフトカプセルに納めたイワシの油は高額の健康食品として販売されている。)も見当たらないため、断念せざるを得ない。
 そこで思索を巡らせることとする。気楽な机上猫学である。
          根際の猫
 化け猫を写真撮影する機会に未だ恵まれないため近所の猫ちゃんに登場願った。
          樹上の猫
 樹上の猫には野性を感じてしまう。太めのヒョウのようである。残念ながら、ジョン・テニエルが描くチェシャ猫のように、ニヤニヤしていない。
 まず、確認しなければならいことは、犬は肉食性を放棄して雑食性と化しているのに対して、猫は依然として太古以来肉食性を放棄していない真性肉食動物とされることである。ちなみに、ペットとしての猫(イエネコ)の祖先は、中東の砂漠などに生息するリビアヤマネコ(ネコ科であるから当然肉食性)とされる。

 サザエさんに登場した猫であったか記憶が定かでないが、猫が焼いたサンマやスルメをくわえて逃走する姿は実に微笑ましいものである。これは猫が魚介類も大好きであることが日常感覚として知られているため、ごく自然の風景として理解できる。しかし、猫は海中、水中での狩りはできないから、あくまで肉食の代替として「ありついたもの」として理解した方がよいと考えられる。

 肉食性の猫が本来的に何が一番好きなのかは、ライオンを思い浮かべれば明らかである。ライオンは獲物を倒すと真っ先に内蔵に食らいつく。猫はシマウマをものにすることはできないが、本当は小動物の血の滴る、湯気の立つほど新鮮な内蔵にかぶりつきたいに違いない。

 猫は古い時代に中国大陸経由で日本に持ち込まれたと言う。中華料理のおこぼれをもらっているうちはまだ幸であったが、日本に来たのが運の尽きであった。肉食動物にとっては、日本の食事のおこぼれは余りにも質素、淡泊で、蛋白質や脂っ気なしの餌は余りにも過酷なものであったに違いない。ネズミ採りにも努力したであろうが、江戸時代の猫は、本来の食性からあまりにもかけ離れた餌に起因して、きっと毛の脂気も不足気味で、極めて不本意な状態に置かれていたことであろう。

 猫にとってどういった状態が最も幸せなのかは判断が難しい。イエネコは労せずして餌にありつくことを決め込んだ、いわば堕落した猫で、キャットフードの味しか知らない輩が増えている。そのため、近所の知り合いの猫は刺身も食べないそうである。
 また、不幸にも打ち捨てられて「野良猫」として人間の生活圏で生き延びる猫がいる。うまくすると、ネコおばさんから安定的に餌をもらえる場合がある。
 一方、打ち捨てられても強靱な意志を有する猫は、「野猫」として、人間の生活圏から距離をおいた状態で野生動物として生きる決意する場合もある。この場合は、限りなく本来の動物蛋白の摂取に努めるであろうが、ブヨブヨになるほど潤沢な餌にありつくのは難しいであろう。

 さて、冒頭に掲げた設問である。ご飯に鰹節をまぶした昔の「猫まんま」は、猫にとっては極めて劣悪な猫ごはんとされる。(岩崎るりは:「猫のなるほど不思議学 知られざる生態の不思議に迫る」)
 猫は本来的には必須脂肪酸や必須アミノ酸を動物性の食品から直接摂取しなければならないとされる(岩崎るりは:同)。したがって、粗食状態にあっては、必須脂肪酸を摂取する栄養補助食品として油をペロペロやることは大いにあり得ることで、なんと、実は台所での目撃情報もあるのである。
 そこで、菜種油か魚油かの問題であるが、必須脂肪酸は動物性の油、植物性の油のいずれにも含まれている。しかし、江戸時代の魚油はあまり質がよくなかったようである。菜種油より価格は安かったものの、火を灯せば鼻持ちならない悪臭があったとされる。これを考えると、いくら魚が好きでも質のよくない魚油をより好んだかは大いに疑問がある。

 こうして、猫のことだけ心配してきたが、近所のイヌを見ると心が痛む。わずかな時間の散歩と餌だけを楽しみにして、鎖につながれたまま終日横たわり、何をすることもなく空しい犬生(人生の犬版)を送っている。お座敷犬は猫並みの待遇であるから別にして、こうした状態の犬には全く行動の選択肢がない。気が狂わないということは、不幸にも古来、「あきらめ遺伝子」が刷り込まれてしまっているのであろう。身勝手な人間の犠牲としか思えない。動物が野生状態で生きるにはしばしば厳しい試練があるのは事実であるが、考えてみればイエネコ、お座敷犬以外のペットは皆決して幸福な状態にないことは明らかである。気まぐれに動物を飼うことは本当は好ましいことではないことを自覚すべきである。